今日4月1日は、プロイセン王の右腕としてドイツ統一をめざして鉄血政策を推進し、1871年にプロイセン王をドイツ皇帝として戴冠させ、ドイツ統一をなしとげたビスマルクが、1815年に誕生した日です。
19世紀初めのドイツは、40近い国に、こまかくわかれていました。そして、そのなかでも勢力の強いプロイセンとオーストリアの2つの国が、自分の国を中心に、1つに統一したドイツ国家の建設を狙っていました。オットー・フォン・ビスマルクは、プロイセンによる統一をなしとげたドイツの政治家です。
ビスマルクは、1815年、プロイセンの田舎で、広い土地をもつ貴族の家に生まれました。貴族の子だというのに、少年時代から、わんぱくで、大学で法律を学ぶようになっても、決闘をくり返しました。しかし、勉強は、なまけませんでした。
大学を卒業して、役人になりました。でも、きゅうくつな役人の社会がすぐいやになり、故郷へ帰って父の仕事をひきついだのち、プロイセン連合州議会の議員になって政治家の道をあゆみはじめました。
そのころのドイツには、封建的な王政をたおして民主主義国家をきずく、革命運動がめばえていました。しかし、プロイセン王国を愛するビスマルクは、革命には反対でした。
1862年、ビスマルクに、戦いにいどむ日がおとずれました。ドイツ統一の夢をえがく国王にみとめられて、プロイセンの首相に任命されたのです。
「ドイツ統一の問題は、言論の力や多数決などの民主的な方法では、とうてい解決できるものではない。鉄と血によってのみ解決できるものである」
ビスマルクは、こうさけぶと、議会の反対をおしきって強力な軍隊をつくりあげました。鉄は武器です。血は兵士です。
1866年、武器と兵をととのえたビスマルクは立ちあがり、わずか7週間で、オーストリアをドイツ連邦から追いだすことに成功して、まず、北ドイツ連邦を建設しました。
「ドイツ統一のためには、フランスの力がじゃまだ」
1870年には、力の強いドイツ国家が生まれるのをおさえようとするフランスに、わざと戦争をしかけて、つぎの年、パリを占領してしまいました。そして、南ドイツの国ぐにを従わせ、プロイセン国王を初代の皇帝に即位させて、ついに新しいドイツ帝国をきずきあげました。
ビスマルクは、そのご、外交や産業の発展にも力を入れ、やがて首相をしりぞいたのち、1898年83歳で亡くなりました。
鉄血宰相とよばれたビスマルクは、武力をふるった軍国主義者でした。でも、ドイツ統一の功績は、いつまでもたたえられています。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)10巻「リンカーン・ダーウィン・リビングストン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ビスマルク」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。
「4月1日にあった主なできごと」
1938年 国家総動員法の公布…1937年7月、北京郊外の盧溝橋での日中の衝突事件に端を発した日華事変は、急速に激化の一途をたどりました。広大な中国の山野で活動する大軍の需要を満たすため、この日国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる権限を規定した「国家総動員法」を公布しました。