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2人目のノーベル賞・朝永振一郎

今日3月31日は、量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎(ともなが しんいちろう)が、1906年に誕生した日です。

1965年、朝永振一郎博士は、ノーベル物理学賞を受賞しました。これは、量子力学を発展させた功績に対して贈られたもので、湯川秀樹博士についで、日本人としては2人目の物理学賞でした。

朝永振一郎は、1906年(明治39年)哲学者朝永三十郎の長男として、東京に生まれました。父が京都大学の教授に就任したとき、振一郎も京都に移り、ここの小・中学校に通いました。中学5年生のとき「相対性理論」で有名なアインシュタインが来日しました。新聞がアインシュタインの業績についていろいろ書きたてたので、振一郎は興味をもち、物理学の本を読んでみました。そして、物理学のふしぎな世界に眼をみはりました。

「こうした世界のことを研究できたら、すばらしいだろうな」

振一郎は、京都帝国大学理学部物理学科に進み、専攻科目に量子力学を選びました。量子力学とは、かんたんに言えば、原子の構造や行動を解くために作られた力学で、これまでの力学では説明できなかった新しい事実を、合理的に説明することができる理論です。当時、もっとも新しい理論だったので、振一郎はこれと取り組んでみようと思ったのでした。しかし、できたばかりの理論ですから、教科書などありません。基礎の論文を読まなくてはなりませんが、その論文を理解するためには、他のたくさんの論文を読まなくてはならない、というように、振一郎は無限の世界の入り口に立っているような気がしました。

このとき、同じ高校、大学と進んだ同級生に湯川秀樹がいました。このことは、振一郎にとって、大きな力でもあり刺激ともなりました。ふたりはきそって研究にはげみました。

大学卒業後、3年ほどして、振一郎は、東京の理化学研究所にある仁科研究室に入りました。仁科芳雄博士は、海外にあって量子力学の研究をつづけて帰って来た、世界的に名を知られた学者です。仁科研究室は、先輩も後輩もない、自由で活発な空気にあふれていました。誰にも気がねのない討論で研究が進められていきます。振一郎の研究もはかどりました。

振一郎はそのごドイツに留学し、帰国ご東京文理科大学の教授となり「超多時間理論」をまとめました。これを発展させた理論が、ノーベル賞の対象となったのです。

朝永振一郎は、東京教育大学学長、日本学術会議会長もつとめ、52年に文化勲章も受賞しましたが、1979年7月、がんに倒れました。73歳でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)16巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「朝永振一郎」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「3月31日にあった主なできごと」

1889年 エッフェル塔完成…フランス革命100周年を記念したパリ万博のシンボルとして、この日エッフェル塔が完成しました。当時300mという世界一の高さを誇り観光客にはたいへん人気となりましたが、鉄骨むきだしの姿はパリの美しい景観をそこねると賛否両論の声があがりました。

1970年 よど号ハイジャック事件…100余名を乗せた日本航空旅客機「よど号」が、富士山上空を飛行中に、赤軍派学生9名にのっとられました。わが国初のハイジャック事件。犯人たちは北朝鮮へ亡命したいと要求、よど号は福岡と韓国のソウル金浦空港を経由して北朝鮮の美林飛行場に到着しました。乗員と乗客は福岡とソウルで解放されたものの、身がわりとなった山村新治郎運輸政務次官と犯人グループは北朝鮮に向かい、山村氏はその後帰国、犯人グループは亡命をはたしました。

投稿日:2009年03月31日(火) 09:50

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)