今日3月27日は、ドイツの物理学者で陰極線の研究中、物質を通りぬける放射線エックス線を発見したレントゲンが、1845年に誕生した日です。
エックス線発見による功績で、1901年に第1回ノーベル賞で物理学賞を受賞したウィルヘルム・レントゲンは、ドイツ西部のレンネップという町で生まれました。父は、織物工場をいとなんでいました。
少年時代は、とびぬけた秀才でもなく、平凡な子どもでした。14歳で、となりの国オランダの高等学校へ進みました。ところが、いたずらをして先生を怒らせた友だちの罪をきせられて、卒業まぎわに退学させられてしまいました。
「大学で勉強したかったのに、どうしよう」
高等学校を卒業していないと、ドイツやオランダの大学は受験できません。しかたなくレントゲンは、スイスまで行って、実力があれば入学がゆるされるチューリヒ工科大学へ進みました。そして、卒業ごは、そのまま大学に残って有名な物理学者クント教授の助手になりました。
高等学校を卒業していないのが障害になって、大学教授への道は、なかなか開けませんでした。しかし、物理学に生きることを心に決めたレントゲンは、くじけずに研究にうちこみ、43歳のとき、やっとビュルツブルク大学の教授にむかえられ、5年ごには大学総長にえらばれました。
総長になっても、朝から夜おそくまで研究をつづけました。とくに、目に見えない光線の研究に力を入れました。
50歳になった、ある日のことです。ガラス管の中で真空放電の実験をくり返しているとき、ガラス管と机の上の蛍光板との間に手を入れてみたレントゲンは、あっと声をあげました。蛍光板にうつっているのは、手の骨だけです。
「あたらしい光線の発見だ」
人のからだをとおす、ふしぎな光線です。しかし、光の正体はわかりません。そこでレントゲンは、答えのでていない数を数学でXと表すのを思いだして、エックス線と名づけました。
エックス線の論文を発表すると、レントゲンの名は、またたくまに世界に広まりました。でも、レントゲンは、やがてノーベル賞を受賞してからも「エックス線は人類のものです。わたしは運よく発見しただけです」と言っただけで、すこしも誇らしげな顔をせず、エックス線に関する特許による個人的な利益をも、いっさい得ようとはしませんでした。
「わたしは、頭で考えるよりも、まず研究し、実験した」
これは、レントゲンが、自分の生涯をふり返って語った言葉です。高等学校退学で、長い間、教授になれなかった苦しみが、レントゲンを、ほんとうの物理学者にしたのかもしれません。エックス線は、医学と科学の発展に、大きな灯をともしました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)12巻「ファーブル・トルストイ・ロダン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「レントゲン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。
「3月27日にあった主なできごと」
1689年 芭蕉「おくの細道」へ出発… 松尾芭蕉 は弟子の河井曽良(そら)を伴ない、この日江戸・深川の庵を出て「おくの細道」の旅に出発しました。東北・北陸をめぐ旅の日数はおよそ150日間、「おくの細道」は、わが国紀行文学の代表的存在です。
1837年 大塩平八郎自害…1か月ほど前に、窮民救済を叫んで反乱(大塩平八郎の乱)をおこして失敗した、大坂(大阪)奉行所の与力(よりき・警察署長のような存在)だった 大塩平八郎 は、この日幕府の追手に潜伏しているところを発見され、自害しました。
1933年 日本「国際連盟」脱退…国際連盟は2月24日の総会で、日本軍による満州建国を否認しました。日本はこの日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立し、戦争への道を歩みはじめるのです。