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東京大空襲のあった日

第2次世界大戦の末期、東京はアメリカ軍により100回以上もの空襲を受けましたが、1945年の今日あった東京への空襲はもっとも大規模なものでした。

大空襲は、1945年3月10日に日付が変わったばかりの深夜に開始されました。B-29爆撃機およそ300機が飛来して、深川地区へ爆弾を投下したのを手はじめに、城東地区、浅草地区、芝地区とつづき、民間の住民を猛火に閉じこめ、逃げまどう人々には超低空から、大量の手榴弾、機銃掃射、そして木造家屋へ焼夷弾を浴びせたのです。爆撃は、2時間40分にもわたり、その夜の東京は、強い北西の季節風が吹いていたため、下町地区は火の海と化したのでした。

人々は火災から逃れるために、隅田川にかかる多くの橋や、燃えないといわれていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいましたが、火災の規模がとてつもない大きなものであったため、火災旋風があちこちに発生して、橋や建物にも流れこみ、焼死する人、窒息死する人、川に逃げこんだものの水温が低いため凍死する人が続出、翌朝の隅田川には凍死や溺死した人たちで川面があふれていたといいます。死亡・行方不明者は10万人以上、焼失家屋18万戸、罹災37万世帯、東京市街地の3分の1以上が焼失しました。

なお、東京大空襲で家族を失った少女を描いた高木敏子のノンフィクション「ガラスのうさぎ」を忘れることはできません。主人公・敏子の父親はガラス工場の経営者。敏子の母と妹を奪った空襲の焼跡に、父が作ってくれたガラス細工のゆがんだウサギが残っていました。その父も疎開途中にアメリカ軍の機銃掃射にあって、敏子の目の前で命を落とします。ひとりぽっちになり、絶望の果てに死を見つめ深夜の海辺をさまよう敏子。でも「私が死んだら、お父さん、お母さん、妹たちのお墓参りは誰がするの。私は生きなければ……」と孤独と悲しみの中で、心を奮い立たせるのでした……。この作品について綴った 2006年4月26日のブログ をぜひご覧ください。

「3月10日にあった主なできごと」

710年 平城京…元明天皇は藤原京から、この日奈良の平城京に都を移しました。「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今さかりなり」と歌われたように、794年桓武天皇が京都の平安京に遷都するまで、たいへん栄えました。

投稿日:2009年03月10日(火) 09:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)