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「ハレルヤコーラス」 のヘンデル

今日2月23日は、バッハと並びバロック音楽の完成者といわれ、ドイツに生まれイギリスに帰化した作曲家ヘンデルが、1685年に生まれた日です。

ヘンデルは、ドイツのハレというところで生まれました。ちょうどその1か月ごに、おなじドイツでバッハが誕生しています。二人とも、バロック音楽の完成者として、世界に名をのこしました。バッハが国内で活躍したのに対して、ヘンデルは、イタリアで学んだあとイギリスへ行って、おおくの仕事をしたので、むしろイギリスの作曲家といわれています。

ヘンデルの、音楽家になりたいという幼いときからの願いを、父はなかなか聞きいれてくれませんでした。父はヘンデルを法律家にさせたかったのです。ヘンデルは、父にかくれて夜中にこっそり音楽の練習にとりくみました。

ある日、父がつかえる公爵の宮廷に招かれて、7歳のヘンデルがオルガンをひきました。ヘンデルの名演奏に感心した公爵は、父に、しっかり教育してオルガン奏者にさせるように説きました。それからのヘンデルは、音楽の先生に指導をうけて、演奏と作曲のうでをみがいていきました。

18歳の年に、そのころドイツオペラの中心地だったハンブルクへ行きました。オペラ劇場のバイオリンひきで生計を立てながら、積極的に音楽の勉強をします。しかしある時、オルガン奏者として、名誉ある地位を望み、名の知れた老オルガン奏者の後継者になろうと考え、遠方まで訪ねたことがあります。ところが、思いもかけないことに、自分の娘と結婚しなければ、弟子にもしてやらないという条件を出されました。気に入らない娘なので、あわててハンブルクへ逃げ帰りました。それからのヘンデルは、心を入れかえて作曲にうち込みました。

そのご、イタリアへおもむき、おおらかで親しみやすいおおくの曲を発表して、たちまちヘンデルは、評判になりました。

木の葉が色づく秋、25歳のヘンデルはイギリスに渡りました。以後イタリア・オペラの作曲家、くわえて劇場経営者として、一生イギリスで活動します。なん度も大成功と破産をくり返しながら『水上の音楽』『メサイア』の傑作を生みだしました。

ロンドンで『メサイア』が初演されたとき、国王ジョージ2世は、第2部の最後に歌われる「ハレルヤ・コーラス」のあまりの感動に、思わず立ちあがって聴きました。それ以来、いまでもこの雄大なコーラスが演奏されると、全員起立して聴くという習慣になっています。

ヘンデルの音楽には、イタリア人の解放的な明るさと、ドイツ人のふかい情感と、イギリス人の伝統につちかわれた力強さとがまじりあって、ゆたかな感情のほとばしりが感じられます。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「ヘンデル」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、先週より、300余名の「小伝」を公開しています。


「2月23日にあった主なできごと」

1784年 漢倭奴国王の金印…福岡県の小島・志賀島の農民がこの日、田んぼの用水路で金の塊を発見し、黒田の殿様に差し出しました。後にこれが、福岡付近にあった奴国(なのくに)の王が、57年に、後漢の光武帝から贈られたものとわかり、国宝に指定されています。

1836年 アラモの戦い…アラモの砦に立てこもる182人のアメリカ・フロンティア義勇軍に、3000人ものメキシコ正規軍が攻撃を開始、有名なデイビィ・クロケットらも義勇軍に加わりましたが13日後に全滅。ただし、メキシコ軍にも大打撃を与え、この地にテキサス共和国ができることになりました。そして1845年、テキサスはアメリカ合衆国と合併、テキサス州となりました。

投稿日:2009年02月23日(月) 09:38

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)