今日1月16日は、豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する梅原龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)が、1986年に亡くなった日です。
こまかい部分にこだわらない、太く力強い線、かがやくような、ゆたかな色彩。これが梅原龍三郎のえがく油絵の特色です。
梅原龍三郎は1888年に京都に生まれました。家は大きな染物商でしたので、着物の図案をかいたり染物をする人びとの仕事を見ながら成長しました。そして、自然に絵や色彩にたいする感覚がやしなわれていきました。
画家になろうと決心したのは、15歳のときです。病気で中学を退学したことが、きっかけになりました。両親は反対しましたが、1度思いたつとやりとげずにはいられないのが、龍三郎の性格です。
浅井忠の洋画研究所で油絵を学んだのち、1908年20歳のとき、フランスへ留学しました。パリに着いた翌日、リュクサンブール美術館でルノアールの作品を見たことが、龍三郎のこれから進む道をはっきりさせることになりました。
「この絵こそ私が夢にまで見ていた、自分で描きたい絵だ」
ルノアールはフランスを代表する画家のひとりです。龍三郎は勇気をだして、ルノアールをたずねていきました。何度もたずねていくうちに、ルノアールは龍三郎の絵を見てくれるようになりました。
「君には色彩についての才能がある。デッサンは勉強することによってうまくなれるが、色彩にたいする感覚は生れつきのものだ」
ルノアールのはげましの言葉は、龍三郎を勇気づけました。フランスでの5年間の勉強ののち、龍三郎は日本に帰ってきました。1913年10月、初めての個展を東京で開きましたが、売れたのは1枚きりでした。龍三郎は、日本の油絵がヨーロッパのまねにしかすぎないことに気づかずにはいられませんでした。
「これではいけない。日本独自の油絵を作ろう」
龍三郎は考えました。しかし、それは、かんたんな仕事ではありません。龍三郎は、日本の自然を見つめなおし、日本人でなければかけない油絵を生みだそうと苦心しました。桜島や富士山や浅間山の風景を、また、中国にわたって北京の風景を数おおく描きました。それらの画面は、はなやかな色彩と力強い筆のはこびによって、見る人びとを圧倒します。
梅原龍三郎は、安井曾太郎とともに「国民画家」といわれ、日本を代表する画家とされています。1952年には、その業績をたたえられて文化勲章がおくられました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「1月16日にあった主なできごと」
754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真(がんじん)は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡海失敗で失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。
1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官も買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。
1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表。こうして国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。