今日7月16日は、明治期に江藤新平らと民選議院設立建白書を提出し、わが国初の政党である自由党を結成して、自由民権運動に尽力した板垣退助(いたがき たいすけ)が、1919年に亡くなった日です。
明治時代の歴史をひもとくと、「板垣死すとも、自由は死せず」 という言葉にぶつかります。これは、1882年4月、岐阜市で板垣退助が暴漢におそわれたときに、叫んだ言葉です。このとき、板垣は、自由党の総理で、人民の英雄とまでいわれていました。自由党員はひどく怒って、全国から数千人も岐阜にかけつけて、大騒動となりました。しかし、政府がいち早く特使を送ったために、大事にはいたりませんでした。
1837年土佐藩(高知県)に生まれ、幕末から明治維新、戊辰戦争、会津戦争、明治新政府の要職となった板垣退助の生きざまは、まさに幕末から明治初期の激動の歴史をみるようです。その後も、西郷隆盛らとともに征韓論をとなえましたが、やがて人民の気持ちを考えるようになって、自由民権の考え方に転じるようになり、自由民権運動の指導者になっていったのです。
しかし、1900年伊藤博文の政友会ができたころから、自由党はバラバラになり、1919年に亡くなるまでは社会事業につくすなど、政治にかかわることなく晩年を送りました。板垣は、意に反して伯爵という貴族の称号をさずけられましたが、伯爵とか子爵といった貴族の身分は、その人一代とすべきだという 「華族一代論」 をとなえるなど、人格清らかだったといわれています
なお、板垣退助の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「板垣退助」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。