今日6月27日は、わが国怪奇文学の最高傑作といわれる 「雨月物語」 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が、1809年に亡くなった日です。
丈部左門(はせべ さもん) は、あるとき旅先で病気で苦しんでいる赤穴宗右衛門(あかな そうえもん) を助けました。そして、心がとけあったふたりは、やがて兄弟のちぎりをむすびました。ある日、宗右衛門は、秋の菊の節句には必ずもどると約束して、郷里へ旅立ちました。さて、菊の節句の日、左門が待ちわびていると、夜になって宗右衛門がもどってきました。ところが、宗右衛門は、左門が用意した酒ものまず 「わたしは、もうこの世にはいないのです」 といって、かき消すように見えなくなってしまいました。宗右衛門は郷里にとじこめられてもどれなくなり、自害して幽霊となって、約束を果たしに左門のところへやってきたのでした。
この怪談は、上田秋成が、中国の古い物語をもとにして書いた 『雨月物語』 のなかのひとつです。
秋成は、1734年に摂津(大阪) 曽根崎で生まれました。しかし、父のことは名も顔もわからず、4歳のときには油屋へ養子にもらわれて、母ともはなれてしまいました。そのうえ、5歳のときに重い天然痘にかかって手の数本の指が不自由になり、暗く悲しい気持ちで、人生を歩まなければなりませんでした。
少年時代から文学がすきだった秋成は、20歳をすぎると、とくに、日本の古い文学に親しむようになりました。そして、俳句や和歌を作り、小説を書き、34歳のころには、すでに名作 『雨月物語』 をまとめあげていました。
ところが、37歳のときからとつぜん医学を学んで医者になりました。火事で油屋が焼けて家も財産もなくし、新しく生活していくために医者の道をえらんだのです。そして、しだいに生活が豊かになると、医者のかたわら国学を学び、『万葉集』 『伊勢物語』 などを研究して歴史に残る本を次つぎに著していきました。国学のことで、本居宣長と意見をきそったことは有名です。
1788年、54歳になった秋成は医者をやめました。病人に親切だった秋成は貧しい人びとにしたわれていましたが、ひとりの少年の診察をあやまって死なせてしまい、責任を感じて医者を捨ててしまったのだ、といわれています。
そののちの秋成は不幸でした。京都に住んで、茶道を楽しみ、歌をよみ、小説を書くあいだ、愛していた妻を亡くし、自分は目をわずらい、いつも、心のさみしさと闘いながら生きていかなければなりませんでした。しかし、苦しい生活のなかでも文学を愛することは忘れず、最後に 『春雨物語』 を書き残して、75歳で亡くなりました。
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 28巻「塙保己一・良寛・葛飾北斎」 の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。