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「埴生の宿」 のビショップ

今日4月30日は、明治時代から長く日本人に親しまれている「埴生の宿(ホーム・スイート・ホーム!)」を作曲したビショップが、1855年に亡くなった日です。

1786年、ロンドンの雑貨商の子に生まれたヘンリー・ビショップは、13歳のときに音楽出版社で働き始め、そのころから和声法を学び、1804年に『アンジェリーナ』と題された小品を作曲して認められました。1806年にバレエ音楽『タマルランとバヤジット』が王立劇場で上演されて成功を収めたのをきっかけに、王立劇場などの音楽監督をしながら、たくさんの歌劇を作曲。『チュルケスの花嫁』『偏執狂』『太陽の乙女』『ミラノの乙女』などを、次々とヒットさせます。

その後ビショップは、フィルハーモニー協会などの指揮者を経て、オックスフォード大学音楽教授を務めますが、1842年には音楽家として初めてナイトの称号を与えられ、生涯に100曲以上もの劇音楽を残しました。ところが現在では、「埴生(はにゅう)の宿」とシェークスピアの詩に曲をつけた「見よ、優しいひばりを」の2つの歌曲だけしか歌われていないのは、残念な気がします。

特に日本でよく知られている「埴生の宿」は、1823年に発表された歌劇『ミラノの乙女』の導入部のアリア「ホーム・スイート・ホーム!」が原曲です。この詩をを書いたのは、アメリカ生まれのジョン・ペインで、ロンドンで俳優や劇作家としてかなりの成功をおさめた人でしたが、この詩を書いたときは、アメリカのロング・アイランドの粗末な家に住んでいた時だったそうです。直訳すると「華やかな御殿に快楽を夢みたことがあったが、たとえ粗末な小屋でも、わが家にまさるものはない。天国にいるような魅力で身を清めてくれる小屋。世界じゅうどこを探したってこんな良いところはない。わが家よ、わが家よ、わが家にまさるものはない、わが家にまさるものはない」といった内容です。

その後ペインは、また旅に出て、アフリカの果てで1855年に亡くなりますが、亡くなる少し前ビショップへの手紙に「ビショップさんが作曲してくれた歌は、いま、どんな貧しい家でも楽しそうに歌われていますが、それを作ったぼくは、小さい時から温かい家庭もなく、寂しく一生を終わるのです……」とあったそうです。

「埴生の宿」は、日本では1889年『中等唱歌集』で紹介された、里見義(ただし) 訳詞がよく知られています。

埴生の宿も 我が宿 
玉の装ひ 羨まじ
長閑也(のどかなり)や 春の空 
花はあるじ 鳥は友
おゝ 我が宿よ たのしとも たのもしや

書(ふみ)読む窓も 我が窓 
瑠璃(るり)の床も 羨まじ
清らなりや 秋の夜半(よわ) 
月はあるじ むしは友
おゝ 我が窓よ たのしとも たのもしや

なおこの歌は、1991年の「日本のうた・ふるさとのうた100選」、2006年の「日本の歌百選」の一つに選ばれています。また、映画やドラマにもよく使われ、戦後の名作映画『ビルマの竪琴』(竹山道夫原作・市川昆監督)、『二十四の瞳』(木下恵介監督)をはじめ、『火垂るの墓』、『純情きらり』、『ゲゲゲの女房』、『マッサン』などにも効果的に使用されました。


「4月30日にあった主なできごと」

1189年 義経衣川で自害…一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いに勝利して、平氏を滅ぼした源義経は、兄の頼朝と対立、この日奥州藤原氏当主の藤原泰衡(やすひら)の率いる500騎の兵に、衣川の館を襲われました。泰衡の父秀衡(ひでひら)は、義経をかくまうよう遺言を残していましたが、頼朝からのおどしに泰衡が屈したためで、義経はいっさい戦わず、妻子を殺害して自害しました。

1945年 ヒトラー自決…ドイツの独裁者ヒトラーは、1933年から12年間ドイツを支配しました。1939年にポーランドに侵入、ソ連に戦争をしかけたことで、第2次世界大戦を引き起こしました。当初は、連戦連勝の勢いでしたが、やがてソ連の反撃にあい、1945年4月に入ると、首都ベルリン陥落まで追いつめられ、この日、前日結婚したばかりの妻とともに自殺しました。1週間後の5月7日にドイツは降伏、ヨーロッパに平和がもどりました。
投稿日:2015年04月30日(木) 05:46

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)