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「佐賀の乱」 と江藤新平

今日4月13日は、明治新政府の重職をにない、司法制度の充実に努めるなど「維新十傑」の一人とされるものの、「征韓論」に敗れて帰郷後、不平士族の乱をおこした江藤新平(えとう しんぺい)が、1874年に亡くなった日です。

1834年、佐賀藩の下級武士の長男に生まれた江藤新平(本名・胤雄)は、1848年に藩校の弘道館で学びました。尊皇攘夷論に近づいたことで退校になると、大隈重信・副島種臣・大木喬任らと同盟を結び、やがて国事に関心をもって、1856年、[アメリカやロシアなどの外圧に対抗するために開国し、通商して富国強兵をとなえよ] という意見書『図海策』を提出すると、藩の洋式砲術、貿易関係の役職に就きました。

1862年には脱藩して京都に行き、長州藩士の久坂玄瑞・桂小五郎(木戸孝允)、公家の姉小路公知らと知り合い、中央政局にかかわろうとするもののかなわず、2か月ほどで帰郷しました。当時脱藩は死罪であったものの、江藤の見識を高く評価した藩主鍋島直正のはからいで永蟄居(無期謹慎)となり、寺子屋師匠などを務めながら、同士と密かな交流をはかりました。

15代将軍徳川慶喜の大政奉還により幕府が消滅した1867年12月、江藤は蟄居を解除されて郡目付として復帰しました。まもなく、薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と結び、王政復古の大号令を行って新政府が誕生すると、佐賀藩もすぐこれに参加。江藤は、副島とともに京都へ派遣され、翌1868年に三条実美関東監察使の軍監となって江戸へ赴き、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸開城が決定すると、江藤は城内の文書類を接収し、東京遷都を成功させました。戊辰戦争が始まると、彰義隊との戦いで討幕軍の黒幕となって才腕をふるうなど、1869年には、維新の功により賞禄100石を賜っています。

1871年明治新政府の文部大輔、左院副議長となり、1872年には司法卿となって、司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)を行ったほか、学制の基礎・四民平等・警察制度の整備など、近代化政策を推進しました。

ところが、1873年に参議という重職につくと、西郷隆盛らとともに武力で朝鮮を開国させようとする「征韓論」を主張したものの大久保利通らに敗れて、西郷、板垣退助、後藤象二郎、副島らとともに政府を去りました。1874年1月には、板垣らと愛国公党を結成し、「民撰議院設立建白書」に名を連ねたあと、帰郷します。

そして2月16日、佐賀の士族たちが江藤らをかついで武装蜂起し、初の不平士族の反乱「佐賀の乱」をおこすと、政府の素早い出兵にたちまち敗れ、江藤は鹿児島・高知に逃れたものの捕まり、佐賀に護送され、見せしめのため、さらし首となってしまいました。


「4月13日にあった主なできごと」

1592年 文禄の役…1590年に全国統一をはたした豊臣秀吉は、「民」(中国)を支配下におこうと、第1次出兵として加藤清正や小西行長らの率いる兵16万人を釜山に上陸させました。これは「文禄の役」といわれ、その後ソウルを陥落させましたが攻めあぐね、翌年休戦をしました。

1612年 巌流島の決闘…宮本武蔵と佐々木小次郎が、山口県の巌流島で決闘を行ないました。武蔵は、約束の時間に遅れて小次郎をいらだたせ、「小次郎敗れたり」と叫んで相手の動揺を誘い、舟の櫓で一撃のもとに小次郎をたたきのめしたといわれています。この有名なシーンは、小説、映画、テレビドラマなどでおなじみです。

1743年 ジェファソン誕生…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いたジェファソンが生まれました。

1818年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、16年もかけて日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1912年 石川啄木死去…「はたらけど はたらけど なおわがくらし 楽にならざり じっと手をみる」などたくさんの短歌や詩、評論を残し、民衆歌人、天才詩人といわれた石川啄木が亡くなりました。
投稿日:2015年04月13日(月) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)