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「近代建築の父」 辰野金吾

今日3月25日は、東京駅の巨大駅舎、日本銀行本店など、日本近代建築創成期をリードした建築家の辰野金吾(たつの きんご)が、1919年に亡くなった日です。

1854年、肥前国唐津(今の佐賀県唐津市)に下級武士の子として生まれた辰野金吾は、1873年に工部大学校造家学科(現・東大工学部建築科)に第1回生として入学し、明治政府のいわゆるお雇い外国人として着任した英国人建築家コンドルの教えを受け、正統派の西洋建築を基礎から学びました。1879年に主席で卒業すると、訪英してコンドルの師であるバージェスのもとで設計の修行を重ね、1883年に帰国すると、コンドルの後を受けついで、工部大学校教授に就任します。

日本建築の講座を設けて熱血指導し、日本建築史で知られる伊東忠太、数々の銀行建築を残した長野宇平治、文化財の保存に努めた関野貞(ただし)ら、たくさんの人材を育てるかたわら、1886年には、新興建設資本と協力して造家学会(のちの日本建築学会)を設立するなど、明治中期以降のわが国近代建築創成期を主導しました。1898年には同大学学長となり、1902年に退官してからは、建築事務所を東京や大阪に開設してたくさんの作品を設計建築するいっぽう、日本建築学会会長、震災予防調査会委員などもつとめました。

代表作は、1914年に上野と新橋を結ぶ新たな中央駅として誕生した東京駅の巨大駅舎でしょう。赤レンガに白い花崗岩の全長300mの駅舎は、第2次世界大戦で3階部分を消失しますが、保存復原工事で2014年に100年ぶりに完成時の姿が復活、新たな東京の顔として人々を魅了し続けています。その他、日本銀行本店など、赤レンガと石の巧みな構成は「辰野式」とよばれ、その頑丈さから「辰野堅固」といわれました。また、工手学校 (今の工学院大学) の設立に参加し、その運営にも尽力しました。

辰野は、日本の古代建築についての研究にも精通し、そのすばらしさ、芸術性を評価して「建築史」という学問を開拓しましたが、非常な勉強家としてもよく知られています。二人の子どもにいつも「自分は秀才だったことはない。しかし、どんな秀才も自分ほど勉強家ではなかった。秀才が1度聞いて覚えることを、自分は10度たずね、20度ただして覚えた。おまえたちも、その意気で勉強せよ」と語ったといわれています。フランス文学者・随筆家として著名な長男の辰野隆(ゆたか)は、こうして育てられたのでしょう。


「3月25日にあった主なできごと」

1499年 蓮如死去…親鸞が開いた浄土真宗の教えを、わかりやすい言葉で民衆の心をとらえ、真宗を再興させて「中興の祖」といわれる蓮如が亡くなりました。

1872年 樋口一葉誕生…『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』などの名作を残し、わずか24歳で亡くなった作家の樋口一葉が生まれました。

1878年 初の電灯…この日中央電信局が開設され、その祝賀会でわが国初の電灯としてアーク灯が15分ほど灯りました。ただし、一般の人が電灯を見たのは4年半後に銀座通りにアーク灯がついてからでした。一般家庭で電灯がつくようになったのは1887年11月のことです。

1957年 EECの結成…EEC(ヨーロッパ経済共同体)は、この日、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク6か国の代表がローマに集まって、結成のための「ローマ条約」を結びました。1958年1月からEECは正式発足しましたが、その経済面での発展はめざましいもので、ヨーロッパ経済の中心となるばかりでなく、EC(ヨーロッパ共同体)、さらにEU(ヨーロッパ連合)となっていきました。
投稿日:2015年03月25日(水) 05:31

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)