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「中村屋サロン」 の相馬黒光

今日3月2日は、1901年、夫愛蔵とともに「中村屋」を創業し、荻原碌山や中村彝(つね)ら芸術家に交流の場を提供したり、ボースら亡命者をかくまって保護するなど、人道主義的実業家として知られる相馬黒光(そうま こっこう)が、1955年に亡くなった日です。

1876年、旧仙台藩士の子として仙台に生まれた相馬黒光(本名・良)でしたが、小学校にあがるころから家計が苦しくなり、キリスト教会に通ううち、12歳で洗礼を受けました。小学校を卒業後に裁縫学校に進むものの進学を強く希望し、1891年にミッション系の宮城女学校に進学しました。ところが、アメリカ式教育を押しつける教師に反発してストライキをおこして退学、横浜のフェリス英和女学校に転校しますが、文学を志して北村透谷、島崎藤村らが講師をする明治女学校にふたたび転校して、1897年に同校を卒業しました。

卒業後まもなく、長野県安曇野で養蚕事業をしていた相馬愛蔵と結婚し、愛蔵の生家に住みました。養蚕や農業に取り組んだ黒光でしたが、健康を害し、また村の気風になじめなかったこともあって、療養のため上京すると、そのまま東京に住み着くことになります。

やがて、本郷にあった小さなパン屋を買い取りると、パンの製造と販売をする「中村屋」を1901年に開業しました。1904年にはシュークリームをヒントにクリームパンを発明するなど苦労を重ねながら店を繁盛させ、1907年に新宿へ移転、1909年には、今も続く現在地に「新宿中村屋」を開店しました。夫とともに、中華饅頭、月餅、インドカリーなど新製品をつぎつぎと考案、喫茶部の新設など本業にいそしむいっぽう、愛蔵の安曇野の友人である荻原碌山、碌山の友人の中村彝ら美術家をはじめ、高村光太郎、木下尚江、島村抱月、松井須磨子、会津八一、秋田雨雀ら文学者らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれる交流の場を提供しました。

碌山の代表作のひとつ『女』像は黒光をモデルとしたものだといわれているほか、黒光は、亡命したインド独立運動の志士ボースをかくまって保護したり、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせたことでも知られています。また長女の俊子は、中村彝が文展で3等賞を得た『少女』『婦人像』など一連の作品のモデルとなり、のちに帰化したボースと結婚しています。中村彝の代表作『エロシェンコ』も中村屋の庇護のもとに生まれました。

なお、「黒光」の名は、恩師の明治女学校教頭から与えられたペンネームで、良の性格的な激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」ということからつけられたとされています。


「3月2日にあった主なできごと」

1894年 オパーリン誕生…生物の起源を科学的に解き明かしたソ連(現ロシア) の生化学者オパーリンが生まれました。

1943年 野球用語の日本語化…太平洋戦争の激化に伴って「英語」は敵性語とされ、この日陸軍情報部は、日本野球連盟に対し、野球用語を日本語化するよう通達を出しました。ちなみに、ストライクは「よし1本・よし2本」。三振は「よし3本、それまで!」、アウトは「よし、退(ひ)け!」、フォアボールは「一塁へ」などとなりました。

1958年 南極大陸横断に成功…イギリスのフックス隊が、ウェデル海から南極大陸に上陸し、南極点を通ってロス海に到達するまで3360kmの行程を、99日間の苦しい旅の末に成功しました。
投稿日:2015年03月02日(月) 05:35

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)