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「広告の先駆者」 光永星郎

今日2月20日は、明治時代の後期に「日本電報通信社」(のちの電通)を創業し、通信業の迅速化、広告代理業の近代化につとめて業界トップに押し上げた光永星郎(みつなが ほしお)が、1945年に亡くなった日です。

1866年、今の熊本県八代郡氷川町に酒造業者の子に生まれた光永星郎は、漢学塾に学んだのち、1880年に徳富蘇峰の父が創立した共立学舎に入ったものの、当時高揚していた自由民権運動に共鳴して中途退学しました。軍人を志して熊本の育雄校を経て上京し、有斐校に学びましたが、ひょう疽(そ)を患い右脚の自由を失ったため政治家志望に転じ、国会開設促進運動を展開。しかし1887年に保安条例違反により、尾崎行雄、星亨、中江兆民らとともに東京からの退去命令を受けました。

1889年「大阪朝日新聞」の記者になり、日清戦争時には「めさまし新聞」の従軍記者として台湾に渡り、のちに記者をやめて台湾総督府の役人となります。やがて記者時代に、通信手段の不備が原因で、せっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験を思いおこし、1898年迅速なニュース報道のために、新聞社にニュースを供給する通信社の設立をめざして役人を辞職、再度上京しました。

そして1901年7月、今の銀座4丁目に2階建ての家を借りて2階を住居、1階の6畳と2畳を事務所に、社員8人による「電報通信社」を設立しました。通信業単独では採算がとれそうもないことから、11月には新聞社に広告を取り次ぐ「日本広告」を併設しました。当時の広告業界は、5つの代理店が独占していて、広告を掲載する新聞社を選べるほどの力を持っていました。そこで光永は、手数料を他社より安く、広告取引の透明化、意匠図案サービスの無料提供など調査情報サービスを掲げ、顧客を少しずつ開拓していきました。

5年後の1906年12月、2社を合併して「日本電報通信社」を興すと、1907年には、アメリカで創業したばかりのUP(現在のUPI)と通信契約を締結して、国内外から政治や社会的事件などの最新ニュースをさまざまな新聞社に配給する通信網を拡大させました。

いっぽう、新聞社とのつながりを深めることで、広告代理業でも大きなシェアを占めるようになりました。創業以来社長のいない会社でしたが、1923年に初代社長になった光永は、これまで以上に通信業の迅速化、広告代理業の近代化につとめ、やがて共に業界トップに押し上げていきました。

しかし、1931年の満州事変後、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上しました。光永は強硬に反発しましたが、軍部の強硬な姿勢に妥協せざるをえず、1936年に新聞聯合社が「同盟通信社」となると、通信部を同盟に譲渡し、電通は広告代理業専業となって再出発したのでした。その間光永は、新聞、通信、広告各団体の設立にも尽力したことで、1933年には、各団体の代表として貴族院議員に任命されています。

なお、敗戦後に「電通」は躍進をとげ、わが国最大の広告会社となったばかりでなく、今や世界有数の広告会社として知られています。


「2月20日にあった主なできごと」

1607年 歌舞伎踊り…出雲の阿国が江戸で歌舞伎踊りを披露、諸大名や庶民から大喝采をあびました。

1886年 石川啄木誕生…たくさんの短歌や詩、評論を残し、「永遠の青年詩人」といわれる石川啄木が生れました。

1928年 初の普通選挙…それまでの選挙権は、国税を3円以上おさめる成人男性に限定されていましたが、大正デモクラシーの勃興や護憲運動によって、納税額による制限選挙は撤廃され、25歳以上の成年男性による普通選挙が実現しました。

1933年 小林多喜二死去…『蟹工船』『不在地主』『党生活者』などを著し、日本プロレタリア文学の代表作家といわれる小林多喜二が、拷問によって殺されました。
投稿日:2015年02月20日(金) 05:32

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)