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「児童福祉の父」 石井十次

今日1月30日は、「岡山孤児院」を設立して数千名もの孤児をりっぱに育てた、明治期を代表する慈善事業家で先駆者の石井十次(いしい じゅうじ)が、1914年に亡くなった日です。

1865年、今の宮崎県高鍋町に高鍋藩の下級武士の子として生まれ石井十次は、14歳で海軍士官を志し東京の攻玉舎中学に学びましたが、病気になり中退して帰郷しました。荒地開墾事業をしたり、小学校教師、宮崎警察事務官などを転々としましたが定着しません。やがて、医者になって立身出世をしようと、当時西日本でもっとも西洋文化の浸透しているという情報をもとに、1882年に岡山県甲種医学校(今の岡山大医学部)に入学しました。

医学生として研修中のある日、四国巡礼から帰ったという貧しい身なりの母子に出会いました。その身の上を聞くうち男の子を預かったのがきっかけとなって、十次は孤児救済事業を志すようになります。そして1887年、医師の道を断念して学校を中退、禅寺の一画を借りて、「孤児教育会」(のちの「岡山孤児院」)の看板を掲げました。その資金は個人の善意や寄付にたよる他なく、十次は「孤児教育会趣意書」を作成して、当時通っていた岡山教会に協力を求め、会員組織としてキリスト教徒や医学校の同窓生を中心に、会員を募って理解を求めました。

1891年の濃尾大地震後には、259人もの院児たちを収容するようになり、十次は、収容した児童の処遇にも工夫を重ね、保育士を親代わりとした小集団家族を小寮舎に住まわせました。個別指導を心がけ、職業指導も徹底して施設を出たあともりっぱに暮らしていけるように、独立・自活の道を探りました。やがて、ルソーの『エミール』の感化を受けた十次は、郷里の宮崎県茶臼原(ちゃうすばる)を開墾して「児童による児童のための理想郷」を建設しようと、1894年から移住を開始し、院児25名が現地で開墾を始めました。

1898年には、孤児のための岡山孤児院高等小学校を設立すると、倉敷紡績の大原孫三郎社長と知り合い、これ以降、大原に大きな経済的な援助を受けながら、翌1899年には、徳富蘇峰らの支援をえて多くの先駆的な実践をくりひろげ、1905年の東北大凶作の際には、無制限に児童を収容して、1200名以上の巨大施設にしました。

1911年、孤児院の拠点を茶臼原に移しはじめ、翌年に女子部移転でほぼ完了させると、1913年には、茶臼原尋常小学校を設立して、農業を中心とした共同社会をめざし、キリスト教に加えて、二宮尊徳の思想を採り入れ、勤勉・貯蓄・奉仕を重んじる指導に努めました。

このような十次の行動は、留岡幸助、山室軍平ら慈善事業家に大きな影響を与えましたが、長年の過労がたまり、48歳で亡くなりました。十次の遺志は、「石井記念友愛社」(宮崎県)と「石井記念愛染園」(大阪府)が引きつぎ、各種の福祉活動をおこなっています。


「1月30日にあった主なできごと」

1649年 チャールズ1世処刑…1628年、イングランド議会から国王チャールズ1世に対して出された「権利の請願」は、大憲章(マグナカルタ)・権利章典とともにイギリス国家における基本法として位置づけられていますが、チャールズ1世はこれを無視して議会と対立。3日前に公敵として死刑の宣告を受けた国王が、この日処刑されました。こうして議会が国政に参加する権利を確立した「清教徒(ピュリタン)革命」が終結しました。

1902年 日英同盟…清(中国)や韓国に進出しようとするロシアに対抗するため、この日ロンドンで「日英同盟」が秘密のうちに結ばれました。イギリスの清の権益、日本の清や韓国の権益を相互に認め、一方が戦争になったときは中立を守り、そこに第三国が参入したときは援助しあうというものでした。当時のイギリスは、アフリカでの戦争に消耗しており、ロシアの南下をおさえる「憲兵」の役割を日本に期待したもので、日本は日露戦争への道を歩みはじめました。
投稿日:2015年01月30日(金) 05:03

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)