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「大悪人?」 梶原景時

今日1月20日は、平安時代末期の「石橋山の戦い」で、のちに鎌倉幕府を立ちあげた源頼朝を救ったことから頼朝に重用されるものの、頼朝の死後に追放された梶原景時(かじわら かげとき)が、1200年に亡くなった日です。

梶原氏は桓武平氏の流れをくむ豪族の出身。1180年、以仁王の平氏追討の令司を受けて源頼朝が伊豆で挙兵し相模の「石橋山の戦い」に敗れたとき、梶原景時は平氏方の大庭景親の部下でありながら、山中に隠れていた敵将の頼朝を発見するものの、故意にみのがしました。

やがて、景時は頼朝の臣下となり、武勇に長じていたのはもちろん、才知と弁舌に優れ、和歌にも堪能な教養人で、頼朝の妻政子が頼家を出産した時は奉行を命じられ、侍所の所司(次官)として、御家人統制の重職につきました。

1184年には、平氏を追って上洛した源義仲が頼朝に敵対しだすと、頼朝は弟の範頼、義経を上洛させて義仲を滅ぼした際も、景時は、範頼のもとで奮戦しました。さらに、平家追討に大きな功績を残すものの、「屋島の戦い」では、[逆魯の争い](景時が、船の進退を自由にできる魯を提案したのを義経が却下した)で、義経と対立したことがきっかけとなり、景時の頼朝への讒言(ざんげん=悪口)が義経を失脚させたことから、後世に景時の悪名がついてまわりました。

その後、山陽道の5か国の軍政官につき、播磨、美作の守護となるきっかけを作り、侍所別当(最高位)の座にのぼって、将軍に代わって御家人の非違を厳しく糾弾するなど、頼朝の重要な手足となりました。

ところが1199年に頼朝が亡くなり、頼家が2代目として後を継いだ際に頼家に、結城朝光が弟の実朝を将軍に立てようとしていると讒言したところ、日ごろから景時の行動やたび重なる讒言をいまいましく思っていた和田義盛ら66人の御家人たちは、連判し「景時糾弾」を頼家に訴えたため、景時は鎌倉を追われ、失脚してしまいました。

翌1200年、景時は甲斐源氏の武田有義を将軍にし、九州に新政権を樹立する計画を立て、朝廷の許可をえようと上洛する途中、駿河国(静岡)清見関で、一族とともに滅ぼされてしまいました(梶原景時の変)。

なお、「景時悪人説」は、幕府の記録である『吾妻鏡』によるもので、執権の北条氏の立場を正当化するものといわれています。北条氏が、計画遂行の障害となる景時を葬り、3年後に頼家を抹殺することは史実に明らかです。また義経の讒言も、独断専行する義経をたしなめ、一軍の将としては慎重に進退を進める必要性を説いた慧眼として、景時の再評価があることも知っておきたいものです。


「1月20日にあった主なできごと」

1875年 ミレー死去…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家ミレー が亡くなりました。

1926年 ダイヤル式自動電話の設置…日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。

1947年 学校給食…太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。
投稿日:2015年01月20日(火) 05:05

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)