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「理論物理学の先駆」 石原純

今日1月15日は、アインシュタインに学んで相対性理論をわかりやすく紹介するなど、わが国初の世界的レベルの理論物理学者として活躍し、アララギ派の歌人としても知られた石原純(いしわら じゅん)が、1881年に生まれた日です。

日本キリスト教本郷教会の牧師の子として生まれた石原純は、郁文館中学、旧制一高を経て、東京帝国大理科大学に入学し、長岡半太郎や本多光太郎らに学んで物理学の基礎をしっかり身につけました。1906年に卒業後、同大学院で研究を深めるいっぽう、雑誌「理学界」に欧米の自然科学の最新情報の紹介に努めました。

1911年に新設したばかりの東北帝国大(のちの東北大)助教授に就任すると、翌年から2年間ヨーロッパに留学。ミュンヘン大学やベルリン大学、チューリヒ大学ではアインシュタインのもとで学び、帰国後に東北大教授となりました。当時の物理学の世界は、ミクロな物質の運動に関する諸現象の発見が相次ぐ「物理学革命」の時代で、その最先端にいた石原は、相対論、金属電子論、光量子仮説、水素スペクトル理論などに関する40もの国際レベルの論文を発表するなど、わが国初の本格的理論物理学者といわれました。1919年には相対性理論や量子論の研究で、学士院恩賜賞を受けています。

1922年に、「相対性理論」でノーベル賞を受賞したアインシュタインが来日した際には、講演の通訳や解説者をつとめたばかりか、『アインシュタイン全集』の編纂に尽力したり、一般大衆がわかる言葉で理論を解説した『相対性の原理』を刊行するなど、物理学の啓蒙に大きな役割を果たしました。また、1931年からは、雑誌『科学』(岩波書店)の初代編集主任を務めるなど、「科学ジャーナリズムの先駆者」ともいわれています。

いっぽう、一高時代に伊藤左千夫に入門したのがきっかけとなって、短歌雑誌『アララギ』の発刊に参加し、初期の主要同人となりました。ところが1921年、妻子を持つ身ながら女流歌人の原阿佐緒(あさお)と恋愛事件を起こしたことで、やがてアララギを脱会したばかりか、大学も辞職するに至りました。

「満州事変」(1931年)や「2.26事件」(1937年)など、ファシズムがいちだんと強まると、自由主義者として軍部に激しく抵抗し、言論弾圧を受けた岡邦雄らを擁護するなど、科学思想分野での発言を活発におこないました。

石原は、敗戦後の1945年12月、アメリカ軍のジープにはねられて重傷を負い、身元不明のまま留置場に放置され、丸1年以上すぎた1947年1月に亡くなりました。石原の科学的精神を基にする言論活動の先には天皇制批判があるといわれ、ある組織による他殺説も否定できません。


「1月15日にあった主なできごと」

1862年 坂下門外の変…大老の井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で殺害されたあとを受けて老中となった安藤信正が、江戸城の坂下門外で、水戸浪士ら6人に襲われました。

1918年 ナセル誕生…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトのナセルが生まれました。

1939年 70連勝成らず…大相撲春場所4日目、69連勝中の横綱双葉山はこの日、関脇安芸の海に敗れ、70連勝をのがしました。当時の大相撲は、1月と5月の1年2場所・10日制で、現在の1年6場所・15日制と条件の違いはありますが、69連勝という記録は、いまだに破られていません。
投稿日:2015年01月15日(木) 05:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)