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「華厳・真言密教」 を復興した明恵

今日1月19日は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧で「中興の祖」といわれ、「高山寺」を開山した明恵(みょうえ)が、1232年に亡くなった日です。明恵は、明恵上人・栂尾(とがのお)上人ともいわれ、公武の崇敬をあつめました。

1173年、紀伊国(和歌山県)有田郡(今の有田川町)に、高倉上皇へ仕えた平重国の子として生まれた明恵(幼名・薬師丸)でしたが、1180年に両親を失い、翌年、京都・高雄の神護寺に母方の叔父で文覚の弟子だった行慈(ぎょうじ)に預けられて修行し、1188年に出家して、東大寺戒壇院で具足戒(ぐそくかい=遵守すべき戒を受けて初めて出家者の集団に入る)を受け、真言密教の行法や、栄西に禅を学ぶうち、華厳宗を究めようと決意しました。

やがて、寺僧間の争いにいやけをさし、俗縁を絶ち、故郷に近い白上峰に庵室を作って、3年ほどこもり修行をかさねました。26歳のころ、高雄神護寺の文覚の勧めで栂尾(とがのお)に住み、華厳の教学を講じるようになりました。その後、10余名の弟子とともにふたたび白上の庵室に入り、そこを拠点に、紀伊国内を転々としながら修行と学問を深めていきました。そのころ明恵は、天竺(インド)の仏跡の巡礼を考えましたが、春日明神の神託のため、これを断念したといわれています。

遁世(とんせい)僧となった明恵でしたが、1206年、後鳥羽上皇から、華厳宗の復興のためにと栂尾の地を下賜されると、弟子の義林房らを伴って移り、華厳経の「日出でて先ず高山を照らす」からとった「高山寺」を開山しました。金堂を作り、運慶・湛慶による釈迦像や四天王像が作られ、金堂の裏山に草庵を設けて、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじる仏教の復興に尽力しました。

明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳・真言密教と称され、高山寺は両宗の道場とされました。のちに、後鳥羽上皇が討幕の命を出して敗れた「承久の乱」(1221年)では、公家の妻女をかくまったことで明恵は捕われることになりますが、これが縁となって北条泰時の帰依を受けるようになります。それだけ明恵の人柄が、無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れるところがすこしもない上、打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようにさまざまに工夫されたものだったからなのでしょう。

著書には、高山寺尼経といわれ小冊子40巻からなる『華厳経』、法然の『選択(せんじゃく)本願念仏集』を批判し『摧邪輪』などがあり、交友のあった栄西から茶の実をもらい、栂尾の地に植えて、「栂尾茶」の基をこしらえたことでも知られています。


「1月19日にあった主なできごと」

1736年 ワット誕生…18世紀末頃からイギリスにおこった産業革命の原動力ともいえる、蒸気機関の改良をおしすすめたワットが生まれました。

1839年 セザンヌ誕生…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが生まれました。

1862年 森鴎外誕生…安寿と厨子王の美しい愛情をえがいた『山椒太夫』、安楽死させた罪に問題をなげかけた『高瀬舟』、ドイツで交際した女性をモデルした『舞姫』など数々の名作を著した文豪森鴎外が生まれました。

1899年 勝海舟死去…江戸幕府末期の開明的な幕臣として坂本竜馬ら幕末の志士を教育したり、咸臨丸で日本人だけの太平洋横断を指揮したほか、幕府側代表として西郷隆盛と会見し江戸無血開城を実現させた勝海舟が亡くなりました。

1969年 東大安田講堂の封鎖解除…全共闘の学生によって、半年前から占拠されていた東大安田講堂へ、8500人の機動隊が前日から出動。2日間35時間にわたる激しい攻防の末、封鎖が解除されました。
投稿日:2015年01月19日(月) 05:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)