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「中国発展の礎を築いた」 ケ小平

今日2月19日は、現代中国で最も重要な役割を演じた政治家のひとりで、毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中国の再建に取り組み、2度の失脚を乗り越えて市場経済の導入をはかって急成長させたことで知られるケ小平(とう しょうへい)が、1997年に亡くなった日です。

1904年、四川省の裕福な地主の子に生まれたケ小平は、16歳のときに「勤工倹学」(働きながら学ぶ)に参加してフランスに渡り、鉄鋼工場員、レストランのボーイ、清掃夫など、職を転々としながら資金をたくわえます。1922年にパリ郊外の中等学校に入学して3か月学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場に工員として勤務しました。1922年に中国少年共産党に入党すると、1925年に中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となりますが、フランス政府から危険分子と見なされたために、1926年モスクワに渡り、中山大学で共産主義を学びました。

1927年に帰国すると、国民党による共産党への激しい弾圧が始まっており、広西地方でゲリラ戦を指導しました。やがて長征に参加して毛沢東を支持し、共産党の中枢として抗日戦争、国共内戦を戦い、特に「八路軍」副指揮官としての活躍は広く知られるようになりました。

1949年中華人民共和国が成立すると、西南部の解放戦を指導、1952年政務院総理、1953年財政部長(大臣)を兼任。さらに1955年中央政治局委員、1956年に中央総書記に選出され、党内序列第6位となって党の日常業務を統括するようになりました。ケ小平は身長150cmの小柄でしたが、毛沢東からも一目置かれ、1957年にケ小平らを率いてソ連に行きフルシチョフ首相にあったとき、ケ小平を「あのチビを甘く見てはいけません。彼は蒋介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したと伝えられています。

しかし、1958年からはじまった「大躍進」運動の総括をめぐって1966年末に毛沢東と対立が始まり、批判が強まることを警戒した毛沢東が「文化大革命」を開始すると、劉少奇と共に資本主義への道を歩む走資派・実権派として激しく批判され、役職を解任されました。

林彪事件後の中国経済立て直しをめざす周恩来の努力で、1973年に副首相として復活しましたが、文化大革命を推進する四人組とは対立が深まり、文化大革命末期の1976年に周恩来が死去したのを機に、北京の民衆が反四人組の声を上げ、第1次天安門事件が起こると、毛沢東および四人組によってその責任をとらされ、再び失脚しました。

1976年9月、毛沢東死去後にケ小平の復活への待望論が高まると、翌1977年7月、党は「四人組」の永久追放・ケ小平の全職務の回復を決定すると、3度目の復活をはたしました。1981年に党の実権を握り、「人民公社の解体」「社会主義市場経済の導入」という積極的な改革開放路線を提唱し、1980年代以降の中国経済の驚異的成長を実現させました。

1987年からは、党の国家軍事委員会主席に専念したものの、第2次天安門事件後に引退。第一線は退きましたが、亡くなるまで江沢民・胡錦涛・温家宝らの後継者に働きかけて、中国の近代化を推進しました。


「2月19日にあった主なできごと」

1185年 屋島の戦い…源義経ひきいる源氏軍は、平氏のたてこもる屋島(現・高松市)が、干潮時には騎馬でわたれることを知ってわずかな兵で強襲を決意。この日、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ一気に攻めこむと、平氏軍はろうばいして海上へ逃げ出しました。こうして、平氏は瀬戸内海の制圧権を失い、一ノ谷、壇ノ浦の戦いを経て、源平合戦の大勢が決しました。

1473年 コペルニクス誕生…宇宙が太陽を中心として回転しているという「地動説」を唱えた天文学者コペルニクスが生まれました。

1837年 大塩平八郎の乱…大坂(現大阪)で大坂町奉行所の元与力の大塩平八郎とその門人は、「幕府の役人の悪政や富商の莫大なもうけを攻撃する」と檄文をまき、多数の富商に火をつけ、大坂の2割を消失させました。乱そのものは小規模でしたが、江戸幕府の弱体ぶりを示した大事件でした。

1972年 あさま山荘事件… 連合赤軍のメンバー5人が、この日河合楽器の保養寮「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に10日間にわたって立てこもりました。
投稿日:2015年02月19日(木) 05:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)