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「フィリピン独立の祖」 アギナルド

今日2月6日は、フィリピンの革命家で、フィリピン共和国の初代大統領となったアギナルドが、1964年に亡くなった日です。

フィリピンは16世紀以来スペインの植民地にされており、フィリピンの先住民たちはスペイン人地主による重税と重労働、宣教師の横暴などに苦しんでいました。

1869年、中国系弁護士の子としてルソン島カビテ州カウイトの町に生まれたエミリオ・アギナルドは、マニラの高校に進学したものの、1882年コレラで高校が閉鎖されてからは復学せず、13歳で学校教育を終えました。郷里にもどったアギナルドは、17歳でカウイトのひとつの地区の首長になると、スペインのフィリピン支配と闘う革命秘密結社「カティプナン」に入りました。

1895年カウイト町長になるものの、翌1896年8月にカティプナンの陰謀が新聞紙上で報道されたことを契機に、スペイン植民地政府はカティプナンを検挙する方針を打ち出しました。カティプナン幹部のボニファシオは武装蜂起を宣言し、マニラ北方のスペイン軍基地を襲撃しましたが、スペイン軍に敗北を重ねます。いっぽうアギナルドは、独自の軍を編成して9月に「イムスの戦い」、11月に「ビナヤカンの戦い」でスペイン軍に勝利し、カビテ州を解放しました。

1897年に入ると、本国から4万人の増派を得たスペイン軍の反攻が進み、2月にアギナルドの支配するカビテ州への進軍が始まり、拠点を置いていたイムスの町からアギナルドはナイクに移動します。5月にスペイン軍はナイクの総攻撃を行い、アギナルドは死を覚悟するものの脱出に成功、やがてカティプナンの指導権を握ると、11月にブラカン州に総司令部を置いて革命政府「ビアクナバト共和国」を樹立、大統領を名乗ります。その後もフィリピン各地のゲリラ戦を指導しながら、スペイン軍と交戦を続け、マニラの弁護士の仲介を得てスペイン当局と12月に停戦協定(ビアクナバト協定)に調印しました。

しかし、この協定は名ばかりのもので、カティプナン内部の抗争も激しさを増し、アギナルドら26人のカティプナンはスペイン側から補償金を得て亡命を申請、同年末に香港に到着、自転車業を開業して時期が来るのを待ちました。そして停戦から1年、1898年にスペインとアメリカによる米西戦争が勃発すると、アメリカはアギナルドに接近、スペインに勝利すればフィリピンの独立を認めるとの確約をえて帰国、スペインを相手にふたたび戦いを挑みました。こうして勝利したアギナルドは、カビテ州の自宅で独立を宣言し、翌年には憲法を制定して「フィリピン共和国」の初代大統領に就任したのでした。

ところが、アメリカとスペインの間にはパリ講和条約によって、アメリカにフィリピンの領有権を譲渡されていたため、国際上はフィリピンはアメリカの領土となっていました。明らかにだまされたアギナルドらフィリピン国民はこれに猛反発し、アメリカの支配に抵抗する革命組織を指導し、アギナルドは得意のゲリラ戦で長期戦に挑みましたが、アメリカの執拗な掃討作戦や住民虐殺により少しずつ追いつめられ、1901年に捕えられ敗北しました。

その後のアギナルドは、アメリカに忠誠を誓って独立闘争をあきらめますが、平和的な独立への動きを模索し、日本軍の統治を経た1946年7月、第3次フィリピン共和国が成立。その独立パレードには、フィリピン国旗を高々と掲げるアギナルドの姿がありました。


「2月6日にあった主なできごと」

1537年 豊臣秀吉誕生…戦国時代に足軽百姓の子に生まれながら、織田信長にとりたてられて、全国統一をなしとげた豊臣秀吉が生れたとされる日です。

1972年 日の丸飛行隊…札幌冬季オリンピックのスキー70m級ジャンプで、笠谷が金、金野が銀、青地が銅メダルを獲得。過去の冬期オリンピックで金メダルのなかった大ニュースに、3人は「日の丸飛行隊」とよばれ話題を独占しました。
投稿日:2015年02月06日(金) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)