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「安保」 生みの親・ダレス

今日2月25日は、1951年9月、日本と49か国との平和条約「サンフランシスコ講和」と、同時に結ばれた「日米安全保障条約(安保)」を推進し、アイゼンハワー米大統領の国務長官として活躍したアメリカの外交官で政治家のダレスが、1888年に生まれた日です。

ワシントンに長老教会牧師の子として生まれジョン・フォスター・ダレスは、ニューヨークの公立学校を経て、プリンストン大学とジョージ・ワシントン大学法学校で法律を学びました。1911年にサリバン&クロンウェル国際法律事務所に入ると、第一次世界大戦中には政府の外交問題担当官をつとめ、戦後のパリ平和会議(ベルサイユ会議)では、使節団顧問として賠償問題を担当するなど国際外交の舞台で活躍。1920年には同事務所の共同経営者、1927年には最高責任者となりました。

第二次世界大戦後は、1945年に国連憲章を定めたサンフランシスコ会議の米代表顧問に任命され、1950年に国務省に入り、対日講和の促進役となって政府内の調整、連合国諸政府との交渉、日本政府との対話などを積極的に行動します。そして、ソ連の反対をはじめとするさまざまな難問を強引に切り抜け、1951年9月8日の「サンフランシスコ講和」と、同日に調印された日本とアメリカとの間の「安全保障条約」を実現させました。

1953年には、アイゼンハワー大統領の国務長官にむかえられ、1959年に亡くなるまで、アメリカの重要外交を一手に引受け、任期中に60万マイルを旅行したため「空飛ぶ国務長官」といわれました。その間、朝鮮戦争の休戦を実現させましたが、1957年のスエズ動乱に対しては軍事介入を宣言したアイゼンハワー・ドクトリン、翌年のベルリン紛争への武力行使声明など、積極的な反共主義を主張します。そのため、冷戦時の強硬外交は、「戦争瀬戸際政策」と呼ばれました。


「2月25日にあった主なできごと」

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1841年 ルノアール誕生…フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、世界中でもっとも人気の高い画家の一人ルノアールが生まれました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった斎藤茂吉が亡くなりました。
投稿日:2015年02月25日(水) 05:47

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)