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「狂歌のリーダー」 大田南畝

今日4月6日は、江戸時代中・後期の幕臣で、狂歌師・文人として活躍した大田南畝(おおた なんぽ)が、1823年に亡くなった日です。

1749年、江戸牛込(今の新宿中町)に御徒(おかち=将軍の行列に徒歩で従う)という下級武士の貧しい家に生まれた大田直次郎(号=南畝・四方赤良・蜀山人・寝惚先生)は、幼少のころから学問や文筆に秀れ、15歳で江戸六歌仙の1人だった内山椿軒に入門し、国学、漢学などを学びました。17歳で父のあとをついで御徒となり、そのかたわら、漢学者松崎観海に師事し、和歌や日本・中国の故事や古典を学びながら狂詩を作り始めました。

やがて1767年、「風来人」として知られる平賀源内に見いだされ、これまで書きとめてきた狂詩を『寝惚先生文集』として刊行すると、「武士は食わねど高楊枝」など、江戸の諸相や武士階級の実情に諧謔を浴びせた狂詩は大評判となり、以後半世紀を越える文筆活動の出発点となりました。

その後数点の黄表紙(絵入りのこっけい小説)を発表し、1769年ころから四方赤良(よものあから)の名で、「四方連」という狂歌活動をはじめ、上方中心だった狂歌を江戸で大流行させるきっかけを作りました。当時は田沼時代といわれ、商人文化がいっきに花開いていた時代であり、国学や漢学の知識を背景にした南畝の作風は、とくに知識人たちに広く受け入れられました。生来の機知にとんだ即吟は江戸じゅうで有名になり、「高き名の ひびきは四方に わきいでて 赤良あからと 子どもまで知る」とうたわれるほどでした。

ところが、1787年に「寛政の改革」が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人としてことごとく粛清されていきます。こんな世相を批判した狂歌「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶといひて 夜もねられず」の作者と名ざしされ、田沼意次の腹心だった人たちと親しかったことから、狂歌の筆をしばらく置きました。幕臣としての職務に励みながら、1792年には創設されたばかりの「学問吟味」という昇格試験に合格すると勘定所勤務となり、1796年には支配勘定にまで上りつめています。

やがて、1801年ころから「蜀山人」の名で狂歌を再開、幕臣のかたわら亡くなるまで作り続け、唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家として活躍しました。代表作には、藤原俊成の名歌「夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり 深草の里」をもじった、「ひとつとり ふたつとりては 焼いて食う 鶉なくなる 深草の里」があります。

1823年、登城の道で転倒したのが原因で亡くなりましたが、辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに  俺が死ぬとは こいつはたまらん」でした。


「4月6日にあった主なできごと」

1483年 ラファエロ誕生…ルネサンス期を代表する絵画、建築はじめ総合芸術の天才といわれるラファエロが誕生しました。1520年に亡くなった日でもあります。

1896年 第1回オリンピック開催…古代ギリシアで4年に1度開催されたスポーツ競技を復活させようと、フランスのクーベルタンによる提唱で国際オリンピック委員会(IOC)が1894年につくられ、この日ギリシアのアテネで近代オリンピック第1回大会が開かれました。参加国14か国、競技種目43種目、選手数240人という小規模なものでした。

1919年 非暴力・非服従運動…インド独立運動の指導者ガンジーは、支配国イギリスに対する非暴力・非服従運動を開始しました。この日、反英運動への取り締まる法律が施行されたのに、断食をして抗議したのをはじめ、イギリス製品の綿製品をボイコットして、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行いました。
投稿日:2015年04月06日(月) 05:19

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)