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「西洋美術」 を広めたフォンタネージ

今日4月17日は、1876年に「お雇い外国人」として来日し、短期間ながらも、浅井忠、小山正太郎、松岡寿ら明治期を代表する洋画家を指導したイタリアの風景画家フォンタネージが、1882年に亡くなった日です。

1818年、イタリア中北部のレジョネルエミリアに生まれたアントニオ・フォンタネージは、同地の美術学校で古典的な風景画を学び、やがて風景画家として認められるようになりました。1848年にトリノに出て、イタリア独立戦争に従軍するもののガリバルディの解放軍の敗北によってスイスへ逃れ、風景画で生計を立てながら、少しずつ叙情的な作風を身につけていきます。

さらに1855年パリへ出て、コローやミレーらバルビゾン派、ラビエらリヨン派の画家と交流を深めるうち、ロマン主義的作風に磨きがかけられ、1865年からはロンドンでコンスタンブルとターナーの風景画に接することで、詩情豊かな牧歌的な独自の風景画を完成させます。1868年にルッカ美術学校校長、翌1869年にはトリノの王立アルベルティナ美術学校教授に迎えられ、自らの制作活動と、後進の指導に、熱意をもって取り組みました。

1876年、58歳のときにフォンタネージは、明治政府が工部美術学校を創立し、本格的な西洋美術教育を実施するにあたり、「お雇い外国人」の一人として招かれ、画学教師になりました。画材からデッサン用の石膏像、画学教科書などを持参し、デッサンや油絵の基礎からバルビゾン派らの絵画に関する講義が優れていたばかりでなく、人間的な魅力の持ち主で、のちに明治期の洋画界を代表する浅井忠、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠らから敬愛されました。

残念ながら、病による体調の悪化で、2年後の1878年9月に帰国しますが、失望した画学科生の多数が退学し、フェノロサや岡倉天心らの活動により西洋美術より日本美術への関心が高まったため、工部美術学校もやがて廃校になり、洋画界にとっては苦難の時代を迎えることになってしまいました。

なお、帰国後のフォンタネージは、療養のかたわらアルベルティナ美術学校に復帰し、多くの風景画を残して、19世紀イタリアを代表する風景画家と高く評価されています。


「4月17日にあった主なできごと」

723年 三世一身法… 聖武天皇が即位したこの年、農民の人口が増え、耕地が不足したため、田地を開墾した者には、本人・子ども・孫の代まで、その土地の所有を認める「三世一身法」を公布しました。当時は、土地の所有は認められず、班田収授制によって貸与された土地からの何割かを「租」として納める制度でした。

1616年 徳川家康死去…応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を、「江戸幕府」を開いてさらに磐石のものとした徳川家康が亡くなりました。

1895年 下関条約調印…1894年7月に始まった日清戦争は日本の勝利に終わりましたが、この日山口県下関市で、日清戦争の講和条約のための下関条約が調印されました。
投稿日:2015年04月17日(金) 05:06

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)