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「法の精神」 のモンテスキュー

今日1月18日は、司法・行政・立法という政治の三権分立をを説いたフランスの法理学者モンテスキューが、1689年に生まれた日です。

ヨーロッパは、暗く重苦しい封建社会から、ようやく脱け出そうとしていました。経済の進んでいたイギリスでは、どの国よりも早く市民革命がおきました。同時に合理的な物の見方、考え方が生まれ、周囲の国ぐにを刺激しました。そして、フランスにも新しい精神が芽生えるようになりました。

モンテスキューは、フランスのボルドーにほど近いラ・ブレードに生まれました。16世紀からつづく、古い貴族の家柄でした。大学で法律を学び、卒業後も勉強をつづけていましたが、27歳のとき、伯父が亡くなり、財産と地位を相続しました。高等法院の副長官となり、モンテスキューは若くして、安定した身分を得ることとなります。

あるとき『ペルシア人の手紙』という書物が町じゅうで評判になりました。当時の習慣やパリの文明をするどくみつめ、たくみに批判している本です。古いものをためらわずに、洗い流そうとする新鮮な感覚が、人びとの共感をよびました。作者の名前は、かくされていたのですが、すぐにモンテスキューだと見破られ、たちまち有名になりました。

絶好の機会でした。モンテスキューは不動の評価をかちとろうとパリに出ます。宮廷貴族の集まりに参加したり、軽い文学作品を書いたりしました。パリに住みつづけていたのは、いずれ名誉ある「アカデミー・フランセーズ」の会員になるつもりでいたからです。ところが、モンテスキューをこころよく思わない人の反対で、いつまで待っても目的を果たせません。しかたなくあきらめかけていたところ、話が急にすすみ、晴れて会員になることができました。

やがてモンテスキューは、自分の考えを深め、見聞を広げるために外国旅行を計画しました。ハンガリーの鉱山見学をふりだしにイタリア、ドイツ、オランダを回り、イギリスに渡って2年間滞在しました。イギリスでは、議会を見学し、おおくの書物を手に入れ、新聞を毎日たんねんに読むという、実りおおい生活を送りました。

フランスに帰国後は、法律と政治を論じたものを書き始めました。大がかりな計画をたて、法律、歴史、地理、経済、政治、思想といった各分野の勉強からとりくみました。広大な準備のすえ、完成したのは『法の精神』という本です。政治の三権分立を主張したこの作品は、フランス革命のよりどころとなったり、「人権宣言」やアメリカ合衆国の憲法に大きな影響を与えたりしました。


「1月18日にあった主なできごと」

1467年 応仁の乱…室町幕府の執権を交代で行なっていた斯波、細川と並ぶ三管領の一つである畠山家では、政長と義就のふたりが跡目争いをしていました。この日、義就の軍が政長の軍を襲い、京の町を灰にした11年にも及ぶ「応仁の乱」のはじまりとなりました。将軍 足利義政 の弟義視と、子の義尚の相続争い、幕府の実権を握ろうとする細川勝元と山名宗全、それぞれを支援する全国の守護大名が入り乱れる内乱となっていきました。

1657年 明暦の大火…この日の大火事で、江戸城の天守閣をはじめ江戸市街の6割以上が焼け、10万8千人が焼死しました。本郷にある寺で振袖供養の最中に、振袖を火の中に投げこんだ瞬間におきた突風で火が広がったことから「振袖火事」ともいわれています。

1882年 ミルン誕生…「くまのプーさん」シリーズを著したイギリスの童話作家・劇作家・エッセイストのミルンが生まれました。

1919年 パリ(ベルサイユ)講和会議…第1次世界大戦後の講和会議が、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の5か国が参加してパリで開催されました。講和条約の調印式がベルサイユ宮殿で行われたことから、ベルサイユ会議とも呼ばれています。この条約により国際連盟が成立することになりました。また莫大な賠償金を強いられたドイツは経済破綻をおこし、ナチス党がおこるきっかけとなりました。
 
1957年 牧野富太郎死去…明治・大正・昭和の3代にわたり、植物採集や植物分類などの研究に打ちこみ、50万点にものぼる押し花や押し草などの標本と20数巻の書物を残した 牧野富太郎 が亡くなりました。

投稿日:2010年01月18日(月) 09:10

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)