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「イラン革命」 とホメイニー

今日6月3日は、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、「イラン・イスラム共和国」の元首として最高指導者となり、イラン・イラク戦争をリードしたホメイニーが、1989年に亡くなった日です。日本では「ホメイニ師」と報道されていました。

1902年、イラン中部のホメインに法学者の子として生まれたアヤトッラー・ホメイニー(本名・ルーホッラー・ムーサービー)は、のちに「ホメイン出身者」を意味するホメイニーを名乗りました。生後5か月の時に父が殺害され、母とおばによって教育を受け16歳の時に2人が亡くなると、兄から教育を受けました。やがて、ゴムでイスラム法学を修め、シーア派の上級法学者「大アヤトッラー」の称号を得ました。

第二次世界大戦中の1941年ころから、パフラビ皇帝の独裁的な西欧化政策に対する不満を表明するようになり、1963年に、皇帝が宣言した近代化政策「白色革命」の裏にひそむ独裁的な性格を非難し、抵抗運動を呼びかけて逮捕されました。この時は釈放されるものの政府批判をとり続けたことで、翌1964年、皇帝から国外追放を受けました。

トルコに一時滞在後、イラクにあるシーア派の聖地ナジャフに移ったホメイニーは、国外からイラン国民に改革の呼びかけを行ういっぽう、シーア派のイスラム法学者が信徒の統治を行わなければならないとする「法学者の統治論」を唱えました。1978年にイラクを離れてフランスに亡命してからも、一貫してイラン国民へ皇帝への抵抗を呼びかけ続けます。

1979年1月、ホメイニーの呼びかけ続ける反体制運動の激しい高まりに、パフラビ皇帝とその家族はエジプトへ亡命しました。15年ぶりの帰国を果たしたホメイニーは、ただちにイスラム革命評議会を組織すると、「イスラム共和国」への移行の是非を問う国民投票を行い、98%の賛意を得たことで、4月1日、「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言しました。そして、「法学者の統治論」に基づき、終身任期の最高指導者になりました。この一連の動きは「イラン革命」と呼ばれています。

新政権は、その発足直後からイランのアメリカ大使館人質事件、イラン・イラク戦争(1980〜88年)などの外交危機や戦争、バニーサドル大統領と議会多数党のイスラム共和党の対立など、さまざまな危機的状況にもまれましたが、ホメイニーは、諸政策に強い影響力をもち、事実上の宗教独裁体制を敷き続けました。

なお、シーア派は、イランを中心にイラク、シリア、イエメン、インドの一部に住んでいるムスリム(信徒)の1割程度の少数派です。9割の多数を占めるのがスンニ派で、神の前ではすべての人が平等とする立場なのに対し、シーア派は預言者ムハンマドの血統を重視し、ムハンマドのいとこのアリーの子孫をイマーム(宗教指導者)として戴く派です。


「6月3日にあった主なできごと」

1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官ペリーは、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが亡くなりました。

1899年 ヨハンシュトラウス(2世)死去…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領ケネディとソ連最高指導者フルシチョフは、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。
投稿日:2015年06月03日(水) 05:39

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)