「障害者福祉教育の先駆」 糸賀一雄
今日9月18日は、知的障害のある子どもたちの福祉と教育に生涯を捧げた糸賀一雄(いとが かずお)が、1968年に亡くなった日です。
1914年、鳥取市立川町に生まれた糸賀一雄は、母子家庭で育ち、旧松江高校時代にキリスト教に入信しました。その影響もあってか、京都大学に入学すると、宗教哲学を専攻し波多野精一に学びました。1938年に卒業後は小学校の代用教員になりましたが、やがて日本は太平洋戦争に突入し、一雄も召集を受けて戦地へ送られることになりました。たまたま病気にかかって入院したため出征が遅れ、はじめに出征した同僚は全員が帰らぬ人になってしまい、人生とは何かを深く考えるきっかけになりました。
除隊後の1940年、一雄は滋賀県庁に勤務し、社会教育の行政家として活躍しました。この間に『次郎物語』の作者下村湖人と親交を結び、下村の提唱する「煙仲間」運動に共鳴しましたが、このまま一生を終えることに疑問を感じ、1946年11月、代用教員時代の同僚だった池田太郎、田村一二とともに、大津市に戦災孤児・浮浪児と精神遅滞児の収容施設「近江学園」を創設し、園長になりました。
その後は、ユニークな心身障害児への養護、教育観を実現するために、池田・田村とともに3人が中心となって、全職員の「24時間勤務」「耐乏生活」「不断の研究」の3つを柱にした「発達保障」の理念に基づく障害者福祉・教育を提唱しました。その内容は、(1) 教育・保護・生産・医療・研究等の諸機能をもつ総合的施設づくりによる発達の総合的追究 (2) 園内教育の学校教育法による公教育としての位置づけ (3) 関連成人施設 (落穂寮・信楽寮・あざみ寮・日向弘済学園など) や重症心身障害児施設 (びわこ学園) の創出による社会福祉施設体系の開拓 (4) 地域の保健・医療機関と提携しての乳幼児健診活動の推進などで、その理念を、力の限りつくしました。
特筆されるのは、「この子らに世の光を」という従来の恩恵的発想を否定し、「この子らを世の光に」を強調したことでしょう。この言葉は、北欧諸国から始まった社会福祉をめぐる社会理念「ノーマライゼーション」(障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なこととする考え方) を先取りしたものでした。
一雄は、講演中に54歳で急逝しましたが、『福祉の思想』『この子らを世の光に』などの著作を残し、関係者や、障害者福祉・教育をめさせす若者たちへ、今も大きな影響を与え続けています。
「9月18日はこんな日」
1927年 徳冨蘆花死去…長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家・随筆家の徳冨蘆花が亡くなりました。
1931年 満州事変勃発…満州の支配をねらう日本陸軍の関東軍は、中国の奉天郊外の「柳条湖」付近で、満州鉄道の爆発事故をおこしました。これを中国のしわざとして軍事攻撃を開始し、数日のうちに満州南部を占領。しかし、中国側から依頼を受けた「国際連盟」は、中国にリットン調査団を送って1932年3月に「満州国を認めない」決議をしたことに日本は反発、国際連盟を脱退しました。中国は同年5月に結ばれた協定により、「満州国」の植民地支配を認めました。
投稿日:2015年09月18日(金) 05:39