「第1回十字軍」 とウルバヌス2世
今日7月29日は、クレルモン教会会議での演説により、第1回十字軍を派遣させたローマ教皇ウルバヌス2世が、1099年に亡くなった日です。
1042年、北フランスの地方貴族の家に生まれラゲリウスのオド(のちのウルバヌス2世)は、聖職者になるための教育を受けました。今のブルゴーニュ地方にあったクリュニー修道院に入り、院長を務めたあと、教皇グレゴリウス7世の招きでローマに赴き、枢機卿(教皇に次ぐ僧職)となりました。
グレゴリウス7世のもとで推進された教会の自己改革(グレゴリウス大改革)では、教皇の右腕として活躍し、聖職者の任免権を持つ神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門するなど着実に改革を進めました。志なかばで亡くなったグレゴリウス7世の遺志をついで、1088年ウルバヌス2世として教皇に選出されたオドは、教会改革の路線を忠実に踏襲し、教皇権の強化に努めました。
当時の西欧社会は、農業生産力の向上により人口が増加し、商業が発達したことでさかんに聖地エルサレムへの巡礼が行われました。ところが、エルサレムはイスラームの聖地でもあり、セルジューク・トルコが支配していたため、ビザンツ皇帝(東ローマ皇帝)は、ウルバヌス2世に救援を求めました。これを受けて1095年11月、クレルモン教会会議の最終日に呼びかけた、教皇の「第1回十字軍の派遣を訴える演説」はよく知られています。
『……あなた方が奮起すべき緊急な任務が生じた。すなわち、あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならない。……その理由は、トルコ人が彼らを攻撃し、またローマ領の奥深く、「聖グレゴリウスの腕」とよばれている地中海沿岸部まで進出したからだ。キリスト教国をつぎつぎに占領した彼らは、すでに多くの戦闘で七たびもキリスト教徒を破り、多くの住民を殺しあるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ神の国を荒しまわっている。これ以上かれらの行為を続けさせるなら、かれらはもっと大々的に神の忠実な民を征服するであろう。されば、……神はキリストの旗手たるあなた方に、騎士と歩卒をえらばず貧富を問わず、あらゆる階層の男たちを立ち上がらせるよう、そしてわたしたちの土地からあのいまわしい民族を根だやしにするよう……くりかえし勧告しておられるのである……』
この呼びかけに応えた諸侯や騎士たちからなる第1次十字軍は、1096年に出発し、1099年7月にセルジューク・トルコからエルサレムを奪回し、エルサレム王国を建設しました。しかし、ウルバヌス2世は、十字軍によるエルサレム占領の14日後にこの世を去り、この知らせを聞くことはありませんでした。
なお「十字軍」は、その後1270年までの間に約7回の遠征が行われましたが、結局聖地の回復は失敗に終わりました。しかし、東西文化の接触による交通や商業の発達、西欧社会の変革を促すきっかけとなりました。
「7月29日にあった主なできごと」
1856年 シューマン死去…『謝肉祭』『子どもの情景』 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが亡くなりました。なお、有名な「トロイメライ」は、全13曲からなる『子どもの情景』の7曲目に登場する曲です。
1890年 ゴッホ死去…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが亡くなりました。
投稿日:2015年07月29日(水) 05:25