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「薬師寺」 を再生させた高田好胤

今日6月22日は、ユーモアあふれる分かりやすい法話や講演、『心』『道』『まごころ説法』の著書など、写経100万巻を達成させ、奈良市にある「薬師寺」の金堂・西塔・中門・回廊他を再建させた高田好胤(たかだ こういん)が、1998年に亡くなった日です。

1924年、大阪市の裕福な家に生まれた高田好胤(本名・好一)は、11歳のとき父を亡くし、母方の実家が東大寺龍蔵院だった縁で、薬師寺の管主橋本凝胤の弟子として引き取られました。凝胤の厳しい教育に耐え、1946年に龍谷大学仏教学科を卒業後、1949年、好胤は薬師寺の副住職に就任します。

当時は老朽化が進んでいた薬師寺でしたが、好胤は「仏法の種をまくことが自分の使命」と考え、修学旅行の生徒たちへの法話に力を入れ、18年もの間、そのユーモアあふれる分かりやすいガイドは人気を呼び、好胤の法話を聞いた生徒は600万人以上にものぼりました。私もその一人で、「みなさん、毎日ご飯をいただくとき『いただきます』『ごちそうさま』といっていますか? 喜びと感謝、敬いの気持ちをもっていえたら、仏さまの教えが半分わかった人です』」という呼びかけにはじまる一つひとつの言葉に、強烈な印象を受けたことを今も思い出します。

1967年、薬師寺管主に就任すると、金堂の再建に挑みました。再建費用は約10億円も必要で、檀家組織を持たない薬師寺にはその負担は重いものでした。好胤は、全国から一人1000円の写経納経の供養料を集める勧進を行って、これを賄おうと考えました(写経勧進)。

そのためには100万人の写経が必要です。好胤は全国800以上の市町村を回り、8000回にもおよぶ講演を行って写経勧進を呼びかけたほか、『心』『道』『まごころ説法』などを著し売れ行きが好調だったこと、三越百貨店での月光菩薩展示も追い風となって復興事業は一挙に進み、1976年には念願の100万巻を達成、同年、金堂が再建されました。その後も写経勧進は進み、西塔、中門、回廊などを次々と再建しました。

亡くなる前年の1997年には写経勧進は600万巻にものぼり、没後の2003年に大講堂が落成したほか、2001年には平山郁夫画伯の、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が、1991年に造営された玄奘三蔵伽藍に展示されたことは大きな話題になりました。写経勧進は今も、薬師寺の大きな柱の一つとなっています。


「6月22日にあった主なできごと」

1633年 ガリレオ終身刑…イタリアの物理学者ガリレオは、宗教裁判で終身刑を言い渡されました。当時、地球は動かず太陽が地球を回っているという「天動説」がローマ教皇庁の考えでした。しかし、ポーランドの天文学者 コペルニクス のとなえた「地動説」を支持、みずからの観測を重ねて本に著したことで教会の怒りをかい、罰せられたのでした。病身だったガリレオは、厳しい取調べに、天動説を認める書類に署名しましたが「それでも地球は動いている」とつぶやいたといわれます。なお、この判決に対し359年後の1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、教会の誤りを公式に認めました。

1752年 雷は電気を証明…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが、たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしました。これがきっかけとなって避雷針を発明します。

1941年 独・ソ戦開始…史上最大の死傷者を出した第2次世界大戦のうちでも「最大の戦い」といわれるドイツとソ連(独・ソ)戦が始まりました。
投稿日:2015年06月22日(月) 05:10

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)