「行動する学者」 森戸辰男
今日5月28日は、大正時代に危険な思想家として東大助教授を辞めさせられ、戦後は2期にわたり文部大臣をつとめ、広島大学学長、中教審会長として活躍した経済学者の森戸辰男(もりと たつお)が、1984年に亡くなった日です。
1888年、今の広島県福山市に旧福山藩士の子として生まれた森戸辰男は、福山中学、第一高校を経て、1914年、東京帝国大学経済学科を卒業しました。森戸は、社会問題を生涯の研究課題に選んで大学に残り、恩師である高野岩三郎の経済統計研究室の助手をした後、1916年に、経済学科助教授となりました。
1919年、経済学科が経済学部として法学部から独立すると、新機運を象徴するものとして、新たに経済学部助教授に就任した大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』を刊行しました。森戸はこの創刊号に、ロシアの無政府主義者として知られるクロポトキンの論文『パンと奪取』を翻訳し「クロポトキンの社会思想の研究」として発表しました。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼勢力から危険思想を広めるものとせめたてられ、さらに新聞紙法違反の罪で森戸は発行者の大内とともに起訴され、教授会は両人を休職処分にしました。
これ対し東大新人会が森戸らを擁護、各大学の学生団体も森戸と大内を擁護し、新聞や雑誌も大きく取り上げ、言論界は大論争となります。裁判は、証人に高野、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、安部磯雄らそうそうたるメンバーが揃い、大審院まで行ったものの、原敬首相兼法相、平沼騏一郎検事総長らの強圧に屈して、有罪が確定。森戸と大内は失職し、森戸は巣鴨監獄の独房で3か月を過ごしました。(森戸事件)
出獄後は、大原孫三郎の援助で発足し、高野が所長を務めていた大阪の「大原社会問題研究所」に迎えられました。同研究所は、森戸や事件に抗議して辞めた櫛田民蔵他、東大経済学部の若手研究家たちが集まったことで、社会思想研究の権威を高め、やがて森戸は常務理事、所長代理をつとめました。
敗戦後、森戸は社会党に入党すると、1946年戦後初の衆議院議員総選挙に当選。以降3回当選をはたし、天野貞祐らと教育基本法原案の骨組み作成に携わったほか、社会保険制度調査会、教育刷新委員会、給与審議会各委員を歴任し、1947年には片山内閣、翌年には芦田内閣の文部大臣に就任、戦後の教育改革に尽力しました。
1950年広島大学学長となって政界を去り、原爆の跡が生々しく残る同大学の再建に力をそそぎました。1963年に退官すると、1966年には、文部省におかれた中央教育審議会(中教審)の会長となり、青少年がいかにその能力を向上させ人間性を育んでいくべきかを「期待される人間像」にまとめて答申しました。「愛国心」を強調したことで、進歩的知識人たちから国家主義的と批判をうけましたが、最近になり、改めて見直す動きもあらわれています。
「5月28日にあった主なできごと」
1634年 出島の建設開始…キリスト教の信者が増えることを恐れた江戸幕府は、ポルトガル人をまとめて住まわせるために、長崎港の一部を埋めたてた出島の建設を開始、2年後に完成させました。1639年にポルトガル人の来航を禁止してから無人になりましたが、1641年幕府はオランダ商館を平戸から出島に移転させ、オランダ人だけがこの島に住むことが許されました。鎖国中は、オランダ船が入港できた出島がヨーロッパとの唯一の窓口となりました。
1871年 パリ・コミューン崩壊…普仏戦争の敗戦後、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されましたが、この日政府軍の反撃にあい、わずか72日間でつぶれてしまいました。しかし、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえています。
投稿日:2015年05月28日(木) 05:12