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最新記事【2015年12月16日】

今日12月16日は、軍部を中心とする勢力にかつがれ、3度にわたり首相を務めた貴族政治家の近衞文麿(このえ ふみまろ)が、1945年に亡くなった日です。

1891年、貴族院議長で公爵の近衛篤麿の長男として、東京・麹町に生まれた近衛文麿は、幼い時に両親を亡くし、13歳で家をつぎました。一高を経て、東京帝国大学哲学科に入るものの、京都帝国大法科に転学し、河上肇らの指導を受けました。大学卒業後に内務省入りした近衛は、1916年には公爵の特権で貴族院議員となり、西園寺公望に信頼され、1919年の第1次世界大戦後の講和条件を結ぶパリ講和会議に、西園寺らの全権随員として参加しました。

1931年に貴族院副議長、1933年には同議長になり、満州事変以降の政局混乱の中で天皇にも信頼され、各方面にも知り合いの多い近衛は、将来の首相候補といわれるようになりました。そのため、軍部が接近をはじめるいっぽう、友人らと昭和研究会をつくり、政策の構想を練るようになりました。

1936年に、陸軍の青年将校らによるクーデター「2.26事件」の直後、最後の元老といわれた西園寺の推薦により天皇から後継の首相に推されましたが、自信がないと辞退しました。しかし、1937年6月に政党政治が崩壊し、再び首相に推され、こんどは各界ならびに国民の支援の声と期待を受けて、第1次近衛内閣を作りました。それからまもない7月、日中戦争の導火線となる「盧溝橋事件」が発生。参謀本部が不拡大方針だったにもかかわらず、近衛は高姿勢で対応したため全面戦争に拡大し、南京占領後は、「国民政府を対手とせず」という声明を出したことで、日中戦争は泥沼化していきました。その後、対英米戦争に拡大しようとする勢力と、それに反対する勢力が閣内で対立し、1939年1月に第1次近衛内閣は総辞職しました。

同年秋に、第2次世界大戦がはじまり、1940年夏にドイツのヒトラーがヨーロッパ戦線で大勝利をおさめると、近衛は再度各界の注目を集め、戦争に国民を駆り立てる「新体制運動」の中心人物に推され、1940年7月に第2次近衛内閣を組織し、日独伊三国同盟を結び、国内ではすべての政党や労働組合を解散させて、戦争体制の整備をはかりました。いっぽうでは日米交渉を続けようとするものの、陸軍が南部仏印に侵入したことでアメリカは石油の対日禁輸を決め、これが日米戦争への分岐点になりました。

1941年7月、第3次近衛内閣を組織して日米交渉に最後の努力を傾注するものの、アメリカ側から中国・南部仏印からの撤退の最後通告を受けてからはその決断がつかずに3か月足らずで総辞職、東条英機が首相になって日米開戦となったのでした。

なお、敗戦後に近衛は、東久邇宮内閣に国務大臣として入閣し、大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、連合国軍にA級戦犯に指定され、出頭当日の未明に服毒自殺しました。「お坊ちゃま」として育った近衛には決断力に欠け、団結力でまさる軍部に引っ張られてしまった責任には重いものがありそうです。


「12月16日にあった主なできごと」

1773年 ボストン茶会事件…この日の夜、高い関税に苦しむインディアンに変装したボストン市民が、港内に停泊中のイギリス東インド会社の船に侵入。342箱の茶を海に投げ捨てました。この事件がキッカケとなって、イギリス本国と植民地の関係が急速に悪化、1年4か月後にアメリカ独立戦争が勃発しました。
 
1864年 奇兵隊の挙兵…11月の第1回長州征伐に敗れた長州藩でしたが、高杉晋作の率いる足軽・百姓・町人の有志で組織された「奇兵隊」がこの日挙兵して、藩の主導権を握りました。

1993年 田中角栄死去…豪雪地帯の貧困から志をたてて内閣総理大臣となり、『日本列島改造論』を発表して経済発展に取り組み、日中国交回復をはたすものの、その金権政治が批判された田中角栄が亡くなりました。
投稿日:2015年12月16日(水) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)