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最新記事【2015年10月16日】

今日10月16日は、ロシア帝国の遣日全権使節として、日露和親条約、日露修好通商条約を締結したプチャーチンが、1883年に亡くなった日です。

1803年、ペテルブルク(今のサンクトペテルブルク)に生まれたエフィム・プチャーチンは、1822年に海軍兵学校を卒業し、海軍士官として多くの武功をたて、1842年に海軍少将となりました。この年、イギリスがアヘン戦争の末、清との間に南京条約を結んだのを受け、プチャーチンは、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じて皇帝ニコライ1世へ極東派遣を献言、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられました。ところが、トルコ方面への進出が優先されたため、この時の極東派遣は実現しませんでした。その後、ラザレフの世界周航探検隊参加、ペルシア派遣使節などを経て1852年に、海軍中将・侍従武官長に栄進すると、念願の日本との通商条約締結のために遣日全権使節に任ぜられました。

1853年7月、パルラダ号以下軍艦4隻を率いて長崎に来航し、ロシア皇帝の国書を手交し、千島・樺太の測量と開国通商を求めました。しかし、このときは調わず、同年12月再度来航して長崎で通好条約、国境取り決め交渉を開始しました。おりからのクリミア戦争(ロシアとトルコ・イギリス・フランスなどの連合国との戦争)がおこったために、敵対関係にある英仏の艦隊を警戒して一時上海に退きましたが、翌1854年からはディアナ号に移乗して長崎、樺太、箱館(今の函館)などに現れて機をうかがい、同年11月に大坂に現れ、1855年2月、下田において日露和親条約を結びました。これにより、下田・箱館・長崎が開港され、エトロフ島とウルップ島の間を日本とロシアの国境とすることが決まりました。

この交渉中、安政東海地震が発生して下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により沈没し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得ませんでした。プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護するなどしたため、幕府関係者らにも好印象を与えました。そのため、戸田(へだ)村(今の沼津市)で代船ヘダ号を、日本人の船大工を指導して建造したことは、わが国の西洋船型建造の始まりとなりました。

その後、1857年9月長崎で日露追加条約、翌1858年7月に江戸でアメリカ合衆国に続き、日露修好通商条約調印にたずさわりました。帰国後、その功により海軍大将に昇進し、以後文部大臣、国務顧問官などを歴任し、貴族(伯爵)の位を与えられています。


「10月16日にあった主なできごと」

1012年 藤原道長絶頂期の歌…藤原氏の全盛をきずいた道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女彰子(しょうし)を一条天皇の、次女妍子(けんし)を三条天皇それぞれの皇后にし、そして三女威子(いし)を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。

1793年 マリー・アントワネット死去…フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、この日38歳の若さで断頭台に消えました。

1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュルンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。(ゲーリングは処刑前日拘置所で服毒自殺)
投稿日:2015年10月16日(金) 05:57

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)