「最後の海軍大臣」米内光政
今日4月20日は、連合艦隊司令長官、7代にわたる海軍大臣、短期間ながら内閣総理大臣を務めた米内光政(よない みつまさ)が、1948年に亡くなった日です。
1880年、岩手県盛岡市に旧盛岡藩士の長男として生まれた米内光政は、家が貧しかったために盛岡中学を卒業後に就職する予定でした。しかし、向学心が強く同郷に斎藤実ら海軍軍人が多かったことから、1898年海軍兵学校に入校しました。1901年に卒業後は砲術学校教官、練習艦に乗船しながら経験を積んで、1905年に勃発した日露戦争に従軍し、日本海海戦などに参戦します。
1912年海軍少佐になって海軍大学校に2年間学び、1915年から、ロシアのサンクトペテルブルク、モスクワ、ウラジオストックに勤務後、語学が堪能だったことから、1920年にはヨーロッパなどにわたって、ロシア革命の状況調査にあたりました。その後、「春日」「扶桑」「陸奥」艦長、艦隊司令官・司令長官などを務め、1936年に連合艦隊司令長官となりました。
米内は政治的な関心は薄かったものの、その国際的な視野の広さを買われ、1937年、林銑十郎内閣のもとで海軍大臣に就任すると、海軍次官を務めた山本五十六と名コンビをうたわれ、第1次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣でも海相を留任しました。1940年には天皇にも信頼されて総理大臣となりましたが、親英米的な考えだったことから、日独伊三国同盟を主張する陸軍側とは、しだいに対立を深めていきました。
当時ヨーロッパではドイツ軍が優勢で、オランダ、フランスが降伏すると、オランダ領インドシナ(インドネシア)やフランス領インドシナ(今のベトナム、ラオス、カンボジア)を占領しようとする陸軍の力が強まったため、6か月後に総辞職へ追いこまれてしまいました。やがて、海軍内でも主流だった米内・山本・井上成美(しげよし)の「良識トリオ」体制より、陸軍に同調する者が多くなって「三国同盟」は締結され、1941年12月8日、日本は太平洋戦争へ突き進みました。
戦争末期の1944年11月、戦争を指揮してきた東条英機退陣を受けて、小磯国昭内閣のもとで副総理格として4期目の海軍大臣に就任した米内は、一日も早く戦争を終わらせるために尽力し、敗戦後も海軍の戦後処理を担当、帝国海軍の最後を見とどけたのでした。
米内は、青少年時代から、明るくおだやかで誠実な人柄が多くの人たちに愛され、極東裁判(東京裁判)のキーナン検事から「日本の真の平和愛好者は、あなたがた4人」として、宇垣一成、岡田啓介、若槻礼次カとともにパーティに招待されています。
「4月20日にあった主なできごと」
1141年 栄西誕生…鎌倉時代の僧で、禅宗の「臨済宗」を開いた栄西が生まれました。
1855年 犬養毅誕生…明治〜昭和の政治家で、政友会総裁となり首相に就任するも、五・一五事件で暗殺された犬養毅が生まれました。
1889年 ヒトラー誕生…「わが闘争」を著しドイツのナチス党をひきいた独裁者ヒトラーが生まれました。
1901年 日本初の女子大学…この日「日本女子大学校」(現・日本女子大学)がこの日開校しました。創立者は成瀬仁蔵で、古来の良妻賢母主義から、一人の人間としての人格形成を新しい女性像として掲げてスタート。制服のえび茶色のはかまが注目の的でした。
投稿日:2015年04月20日(月) 05:05