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最新記事【2017年10月03日】


● 今日(10月3日)の主なできごと

1964年 日本武道館が完成……この日、東京の北の丸公園に、東京オリンピック会場の一つとして日本武道館が開館。法隆寺の夢殿をかたどった正八角形の建物で、15000人を収容できる総合武道施設だったが、今では武道に限らず、コンサート会場や大学の入学式・卒業式などとして広く使用されている。

1990年 東西ドイツ統一……第2次世界大戦後、東西に分裂していたドイツは、45年ぶりに統一された。ベルリンの壁が崩壊してからわずか11か月後のこの日は、「ドイツ統一の日」という記念日となっている。


● 今日の主な記念日・恒例日

登山の日/山の日……「と(10)ざん(3)」の語呂合せから、日本アルパイン・ガイド協会が1992年に制定。


● 今日生まれた人

1804年 ハリス……アメリカの外交官。江戸時代後期に初代駐日本公使となり、日米修好通商条約を締結。

1867年 ボナール……フランスの画家・版画家。日本美術の影響。

1873年 津田左右吉……明治・大正・昭和期の歴史学者・思想史家。上代史と東洋史の研究に業績。

1884年 下村湖人……大正・昭和期の小説家・教育家。代表作『次郎物語』。

1905年 平林たい子……昭和期の小説家。代表作『施療室にて』『かういふ女』『秘密』など。

1912年 米山正夫……昭和期の作曲家。代表作『森の水車』『山小舎の灯』『リンゴ追分』『三百六十五歩のマーチ』など。


● 今日亡くなった人

1962年 飯田蛇笏……明治・大正・昭和期の俳人。「ホトトギス」隆盛期の代表作家。

1966年 シーベルト……スウェーデンの物理学。放射線防護に関する研究。線量当量の単位Sv(シーベルト)の由来。

1999年 盛田昭夫……昭和・平成期の経営者。井深大と東京通信工業(現在のソニー)設立。


● 過去のマイブログ「10月3日」のテーマ
 
2014年 「世界のソニー」 と盛田昭夫
井深大と共にソニーを創業し、世界最大級のエレクトロニクス企業に育て上げた盛田昭夫(もりた あきお)が、1999年に亡くなった日です。1921年、名古屋近郊の酒造業の子に生まれた盛田昭夫は、家業にはほとんど興味を示さず、電子機器をいじるのが好きでした。旧制愛知第一中学や第八高校時代には、熱心なアマチュアの電子機器マニアになり、学業よりもラジオやレコードプレーヤーなどの電子機器を製作していました……。

2013年  [おもしろ民話集 101] 若返りの水
むかしむかし、山のふもとの小さな村に、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日おじいさんは、山へ炭焼きに出かけました。山の木を切って、炭を焼いて俵(たわら)に詰めて、近くの町ヘ売りに行くための用意です。でもおじいさんは、年を取ってきたために、仕事がつらくなりました。「ああ、腰は曲がるし、目はしょぼしょぼするし、いやになってしもうたなぁ……。

2012年 『次郎物語』 の下村湖人
長編教養小説『次郎物語』(全5部)や『論語物語』などを著わした作家の下村湖人(しもむら こじん)が、1884年に生れた日です。佐賀県に生れた湖人(本名・内田虎六郎)は、母親が病弱だったため生後まもなく里子にだされ、4歳のときに実家にもどりましたが、9歳で実母を失いました。家業が次第に傾きはじめたため、熊本の旧制第五高等学校入学後に下村家の学資援助をうけて学業を続け……。

2011年  初代駐日公使のハリス
アメリカ合衆国の外交官で、江戸時代後期に初代駐日本公使となり、日米修好通商条約を締結したハリスが、1804年に生まれた日です。ニューヨーク州に生まれたタウンゼント・ハリスは、中学を卒業するとすぐ、兄の経営する中国特産の陶磁器輸入業の手伝いをするようになりました。そのかたわら、図書館などを利用して独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を習得しました……。

2008年  [おもしろ民話集 50] あみがさの娘
昔、3人の美しい娘をもった金持ちの男がいました。3人の娘が、それぞれどのくらい自分のことを愛しているか知りたくなりました。そこで、3人の娘たちにきいてみました。1番上の娘は「私の命くらいに」、2番目の娘は「世界をみんなあわせたくらいに」というので、大変満足しました。ところが、3番目の娘は「お肉の料理にそえる塩くらいに」といったのを聞くと、父親はとても怒って……。

2007年 「かわいそう」 と思うだけが愛情ではない
午後になって 「やっぱり雨が降りだした」 日のこと。道で会った顔見知りのお母さんが 「朝子どもに、きょうはかさを持って行くように言ったのに持って行かなかったものですから……。子どもがかさを持ってきてくれるように電話をかけてきたんです」 と言い残して、わが子のかさを手に雨のなかを急ぎ足で学校へ……。

2006年 「一茶」 のこども時代
一茶(いっさ)というのは、句をよむときの名まえです。ほんとうの名は、信之 (のぶゆき) といいました。3歳のときに母がなくなり、信之は祖母に育てられました。祖母は、かわいがってくれました。しかし、村の子どもたちからは 「親のない子は、どこでも知れる。つめをくわえて、かどに立つ」 と、からかわれ、いつも、ひとりぼっちでした。このころのさみしさは、のちにつくった 「われと来て 遊べや 親のないすずめ」 という句に、よくあらわれています……。

2005年  日本の実情を世界に広める意義
アメリカやヨーロッパの新聞や雑誌には、日本に関する記述が10年前とは比較にならない程増えつづけています。しかし、その多くは日本経済の驚異的発展とか悲惨な公害とかに重点がおかれていて、日本の全体像を正しく伝えるものが少ないのが実情です。そのため「安い賃金でモーレツに働き、公害防止に金を惜しみ、社会福祉もいきとどいていない。おまけに国の防衛はアメリカにおんぶにダッコ……。
投稿日:2017年10月03日(火) 05:08

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)