「臨済宗中興の祖」 白隠
今日12月11日は、江戸中期の禅僧で、20数年にもわたる苦しみの修行の末に自らを納得させる悟りを完成させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠(はくいん)禅師が、1768年に亡くなった日です。
1686年、駿河国原宿(今の静岡県沼津市原)にあった杉山家の3男として生まれた白隠(幼名・岩次郎)は、15歳のとき松蔭寺で出家得度し、単嶺和尚に慧鶴(えかく)と名づけられました。19歳の春、禅の功徳について懐疑的になって旅に出ると、今の岐阜・福井・愛媛・広島の寺を訪ね歩きました。しかし、仏法に対する迷いが生じ、仏像や経巻を見ることにさえ嫌悪を覚え、詩文に耽りました。
20歳の春、また立ち上がって美濃国大垣の瑞雲寺におもむき、馬翁和尚に厳しい指導を受けました。そして、膨大な本が虫干しされている中から、『禅関策進』に出会いました。明の雲棲が著した禅修業に対する古人の言行を集成したもので、とくに唐僧の慈明禅師が錐で自分の股を刺して睡魔と戦い、座禅したエピソードに感銘、すっかり堕落していたわが身を深く反省して、再び修行する決意をしました。その後、伊予国松山の正宗寺で逸禅和尚が講じる『仏祖三経』を聞いて感銘、両書を常に座右の友にしたということです。
さらに24歳の春、越後高田の英厳寺へ行き、性鉄和尚の荒々しい叱りに耐えたのが縁で、信州飯山の正受和尚・道鏡に出会いました。道鏡は慧鶴の高慢をののしり、時には打ちすえて厳しく接しました。約8か月の修行の末、道鏡に「汝、徹せり」といわせるに至り、松蔭寺へ帰って布教を続けますが、慧鶴の修行はまだまだ終わりません。
自身の禅定力(ぜんじょうりき=心を乱されない力)が不足していることを反省した慧鶴は、再び行脚しながら座禅に取り組んだところ、無理がたたって肺を患ってしまいました。それにもめげず、京都白川の山奥に住む白幽子という仙人に内観(心身のリラックス法)の秘訣を授かり、これを必死に実践して肺患を完治させました。
それ以後も、下総、伊勢、若狭などを旅するうち、松蔭寺が荒れ果てているという話を聞いて戻ると、やがて禅者としての慧鶴の名声が高まり、訪れる修行僧も増えてきました。そして、1718年34歳のとき、臨済宗京都妙心寺派の首座に推され、これを機に白隠を名のりましたが、松蔭寺にとどまって修行僧たちとともに座禅にはげみ、1727年7月、禅道仏法の妙処を43歳にしてはじめて会得することができました。
こうして、曹洞宗・黄檗宗に押されて衰退していた臨済宗を復興させ、禅の民衆化につとめて「公案禅」を確立しました。これは、優れた禅者の言葉や動作などを記して、これを座禅しようとする人に示し、考える対象または手がかりにさせたものです。また、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案するなど、生涯にわたり禅の布教に尽力しましたが、権力者には近づかず、つねに農民や町民のなかにあり続けました。今も、臨済宗十四派は、すべて白隠を中興の祖としているため、白隠の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦します。
衆生(しゅじょう=人間)本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬(たと)えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり……
こうして、のちに臨済禅中興の祖、500年に一人の禅師と仰がれるようになった白隠は、禅画もをよくし、好んで釈迦、観音、達磨などを描いた数々の絵は、現在も松蔭寺に保存されています。
「12月11日にあった主なできごと」
1223年 運慶死去…国宝となっている東大寺南大門の「仁王像」などの仏像彫刻を残し、鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶が亡くなりました。
1485年 山城国一揆…日本最大の内乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍足利義政に仕える守護大名畠山持国の実子義就(よしなり)と、養子政長の家督争いでした。この争いが、乱後も続いたため、この日住民たちは大規模な一揆をおこし、平等院に集合して、8年もの間、山城国の政治を自治的に運営しました。
1950年 長岡半太郎死去…原子核の存在を予見したり、磁気にひずみあることの研究など、地球物理学、数理物理学の発展に貢献した物理学者の長岡半太郎が亡くなりました。
投稿日:2015年12月11日(金) 05:35