「ラテンアメリカ革命」 とゲバラ
今日10月9日は、アルゼンチン生まれの政治家・革命家で、キューバ革命のゲリラ戦を指導して革命を成功させ、『ゲリラ戦争』『ゲバラ日記』などを著して中南米ばかりでなく世界に大きな影響を及ぼしたゲバラが、1967年に亡くなった日です。
1928年、アルゼンチン第2の都市ロサリオの中流家庭に未熟児として生まれたエルネスト・ゲバラは、幼少のころから喘息に苦しみ、生涯苦しみぬきました。それが医学を志すきっかけになったのでしょう。1945年にブエノスアイレス大学で医学を学び、在学中に友人とともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を体験しました。その過程で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らと出会うなど、比較的裕福だったアルゼンチン以外の貧しい人々の状況を見聞するうち、社会問題に目が開かれるようになります。
1953年に博士号をえて大学を卒業すると、ふたたび友人とともに南米放浪の旅に出ました。まず訪れたボリビアでは、革命が進んだことで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな感銘を受けると、その後はペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルなどを旅し、グアテマラに行き着きました。医師をしながらグスマンによる革命政権に協力しましたが、1954年アメリカ政府が反革命軍を援助して隣国から侵入、革命政府を打倒するのを目の当たりにしました。
この出来事がきっかけとなり、武力によるラテンアメリカ革命を本気で志すようになったゲバラは、メキシコに逃れると、最初の蜂起に失敗して潜伏していたキューバのフェデロ・カストロらと親しくなります。バティスタ独裁政権打倒をめざすカストロに共感したゲバラは、一夜にして武装ゲリラ闘争への参加を決意、数か月間のゲリラ戦の訓練を受けた後の1956年末、カストロらとともにヨット「グラマン号」でキューバ東部へ上陸し、シエラ・マエストの山中でゲリラ戦を開始しました。
2年以上にわたるゲリラ戦で、ゲバラは革命軍の第2部隊司令官・軍医として活躍して勝利に貢献すると、1959年1月に独裁者バティチスタが亡命し、革命政権が樹立されました。キューバ市民権を得たゲバラは、カストロ政権のもとでキューバ国立銀行総裁、工業相などをつとめるなどキューバ社会主義建設につくします。親善使節を率いてアジア・アフリカ諸国訪問、キューバ代表として国連総会に出席、アジア・アフリカ人民連帯会議に出席した際には「帝国主義を攻撃するすべての国を助けることなしに、自国の社会主義を建設することはできない」という演説はよく知られています。
ところが1965年4月、「世界の他の国が私の力添えを望んでいる」というカストロへの置手紙を残し、ゲバラはすべての地位を捨てて姿をくらましました。同志とともにアフリカのコンゴに渡り、ゲリラ闘争に挫折したのち、ボリビアを「第2のキューバ」にして中南米の革命のとりでにしようと、武装ゲリラの戦いを指揮しました。しかし、1967年7月、ボリビア政府軍との衝突で負傷し、捕えられて射殺されたのでした。まだ39歳の若さでした。
しかし、彼の残した『ゲバラ日記』などの著書にある「世界のどこかで行われる不正を感じて、世界を駆け回る」という革命家のロマンは、その魅力を失っていません。なお、ゲバラは「チェ・ゲバラ」の呼び名で知られていますが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われている「やぁ」とか「おい」と呼びかけに使う言葉です。
「10月9日にあった主なできごと」
1547年 セルバンテス誕生…ユーモア、風刺、空想に満ちた作品『ドン・キホーテ』を著したスペインの作家セルバンテスが生れました。
1874年 万国郵便連合スタート…さまざまな国の人々が、国際交流や協力ができるように、世界の加盟国間に安い料金で郵便が送れる「万国郵便連合」(UPU)ができました。日本は1877年2月に加盟しました。
1946年 男女共学の実施…文部省(現・文部科学省)は、「国民学校令」の一部を改め、男女共学の実施を指示しました。それまでは別々にされていた男子と女子の授業は、同じ教室で受けるようになりました。
投稿日:2015年10月09日(金) 05:58