「一級の文人政治家」 淡海三船
今日7月17日は、奈良時代後期の政治家で、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を著した淡海三船(おうみの みふね)が、785年に亡くなった日です。
722年、天智天皇の長男大友皇子(弘文天皇)の曾孫として生まれ、聡明な若者の御船王といわれましたが、その詳細は不明です。唐僧にしたがって出家し三蔵九経を学び、751年に勅命で還俗して、淡海真人の氏姓をさずけられたのち、淡海三船を名のりました。
官人として有能で、各地の巡察使などを歴任しますが、時には厳しすぎる査察や朝廷を誹謗したとして、その任を解かれることもありました。しかし、761年に従五位下・駿河守となり、762年文部少輔、764年には美作守に任ぜられるなど、順調に出世していきました。
特に同年9月に謀反をおこした「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」では、宇治から近江国へ逃れた押勝一味を捕縛することに成功し、乱後にその功労によって3階級昇進して正五位上となり、勲三等の叙勲を受けて近江介に任ぜられたほか、功田20町を与えられました。
三船の功績は、官人としてばかりでなく、文人としての能力を、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)と並び「文人の首」と称されています。とくに779年に撰した鑑真の伝記ともいえる『唐大和上東征伝』は、生き生きとした描写は高く評価され、文学書としてばかりでなく、古代史、仏教史、交通史の上でも貴重な資料となっています。
これ以外にも、その詩文は『経国集』に5首、『東征伝』に2首おさめられている他、『続日本紀』(29巻)の撰者の一人でもありました。
「7月17日にあった主なできごと」
1604年 徳川家光誕生…江戸幕府第3代将軍として、参勤交代制、キリシタンの禁制、鎖国などを断行して、幕府の全国支配体制を確立した徳川家光が生れました。
1795年 円山応挙死去…江戸時代中期の絵師で、『雪松図屏風』など、写生を重視した日本画を完成した円山応挙が亡くなりました。
1868年 江戸が東京…明治天皇は、徳川幕府のあった江戸を東京と改め、首都としました。これまでの首都は京都にあり、東京は京都の東にあたるため「東京」となりました。
投稿日:2015年07月17日(金) 05:32