「生活派短歌」 の土岐善麿
今日4月15日は、石川啄木とともに生活派歌人といわれ、国語学者としても活躍した土岐善麿(とき ぜんまろ)が、1980年に亡くなった日です。
1885年、今の東京浅草にある寺院の子に生まれた土岐善麿は、子どものころに僧侶の父から短歌の作り方を教わり、旧東京府立1中を経て、早稲田大学英文科に進み、同級の若山牧水や北原白秋らと交流しながら作歌に励みました。
卒業後、読売新聞記者となり、1910年にローマ字の1首3行書きという異色の第1歌集『NAKIWARAI』(146首収録)を出版すると、日常生活の哀歓や新鮮な叙情とともに歌壇の注目を集め、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が賞賛したことががきっかけとなって、啄木の無二の親友となりました。
1912年に啄木が亡くなると、善麿は啄木の遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編さんに尽力するなど、啄木を世に出すことに努力し、啄木の遺志をついで文芸思想誌『生活と芸術』を創刊して生活派歌人の育成に努めました。その後、歌集『黄昏に』『遠隣集』など、生活に根ざした若々しい感覚の歌の数々に、啄木とともに生活派短歌の代表歌人といわれるようになりました。いっぽう、社会部長にあった1917年には、東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画して大成功を収めますが、これが今日の「駅伝」の起こりとされています。
また、古典、中国詩、能楽などの研究書を著したり、田安宗武の研究に打ちこんだりしましたが、大杉栄や荒畑寒村ら社会主義者と友好を持つうち、自由主義者として非難されるようになり、1940年に読売から移った朝日新聞を退社して、戦時下を隠遁生活で過ごしました。
敗戦後にふたたび歌作に励み、1946年には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞したり、翌年には『田安宗武』で学士院賞を受賞すると早大教授となり、上代文学などを講じたり、国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くしました。
代表的な短歌を、いくつか掲げてみましょう。
働くために生けるにやあらむ、
生くるために働けるにや、
わからなくなれり。
めづらしく、金もちのごとき
この朝の寢ねざめの心に、
スリッパをはく。
手の白き労働者こそ哀しけれ、
国禁の書を、
涙して読めり。
けふも、なほ、裏のあき家の、
そこばかり、消えぬがさびし、
やねのうへの雪。
遠く来て、この
糞のよなビフテキを
かじらんとする、──妻よ、妻よ、恋し。
「4月15日にあった主なできごと」
905年 古今和歌集完成…『古今和歌集』(古今集)は、日本で最初の勅撰(天皇の命令で和歌などを編集)和歌集で、醍醐天皇の命によって紀貫之ら4名によって編まれ、この日、約1100首、20巻が天皇に奏上されました。『枕草子』を著した清少納言は、古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたと記しています。
1452年 レオナルド・ダビンチ誕生…ルネッサンス期に絵画・建築・彫刻そして自然科学にも通じていた万能の天才と讃えられるレオナルド・ダビンチが生まれました。
1865年 リンカーン死去…「奴隷解放の父」といわれるアメリカ合衆国16代大統領リンカーンが、南北戦争の終わった5日後の夜、ワシントンの劇場で南部出身の俳優にピストルで撃たれ、翌朝のこの日、56歳の生涯を閉じました。
投稿日:2015年04月15日(水) 05:25