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最新記事【2015年01月16日】

今日1月16日は、太平洋戦争に情報将校として従軍、戦争終結から29年目の1974年にフィリピン・ルバング島で救出され、帰還を果たした小野田寛郎(おのだ ひろお)が、2014年に亡くなった日です。帰国後は「自然塾」を開き、ブラジルでの牧場経営を成功させています。

1922年、今の和歌山県海南市に県会議員の父と教師の母の4男に生まれた小野田寛郎は、3人の兄がいずれも陸軍将校だった影響を受け、旧海南中学を経て、1944年に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校、中国語や英語が得意だったことから抜てきされて陸軍中野学校二俣分校に入り、おもにゲリラ戦や情報戦の教育を受け、予備陸軍少尉としてルパング島に派遣されました。着任してまもない1945年2月にアメリカ軍が上陸します。日本軍の各隊はアメリカ軍による艦砲射撃などの大火力に撃破され山間部に逃げこみ、小野田は友軍を待ちながらも、部下と共にゲリラ戦を展開しました。

そして1945年8月、終戦を知らせる米軍のビラを目にするものの、内容や日本語の表現がおかしかったことで米軍の謀略と判断、ゲリラ戦を持続しました。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでも頑張ってくれ」と教育を受けていた小野田は小塚金七上等兵と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林にこもって、情報収集や諜報活動を続けました。しかし、長年の戦闘と1972年に小塚が射殺されて亡くなったことで孤独を深めていきました。

1974年、小塚の死がきっかけとなって、小野田の捜索活動が開始され、これに触発された冒険家の故・鈴木紀夫が現地を訪れ、2月に小野田との接触に成功。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官命令があれば、任務を離れることを了承、翌3月、かつての上官による「作戦解除・帰国命令」を受けて帰国したのでした。

しかし、帰国後の小野田は、1972年にグアム島から帰国し驚くほど早く適応した横井庄一と異なり、一部マスコミの虚偽報道や、大きく変貌した日本社会になじめず、半年後には、次兄のいるブラジルに永住して小野田牧場を経営することを決意します。帰国後に結婚した妻の町枝と共にブラジルに移住、10年を経て牧場経営を成功させました。

1984年からは日本で生活することも多くなり、山梨県に「小野田自然塾」を開き、ルパング島での体験を元に、小中学生に「生きる意思の大切さ」を伝えたいと、火おこしや米の炊き方、野山で寝袋を使ってどのように寝るかなどを教えました。1991年からは、福島県に作ったキャンプ場を拠点に活動を持続し、晩年は、全国で講演会を開くなど、亡くなる数日前まで積極的に行動をしていました。


「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡航に失敗し失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官を買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の本格的な戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

1986年 梅原龍三郎死去…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家の梅原龍三郎が亡くなりました。
投稿日:2015年01月16日(金) 05:14

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)