「三菱財閥」 と岩崎小弥太
今日12月2日は、三菱合資会社の4代目として社長に就任し、日本最大の重工業企業集団に成長させた岩崎小弥太(いわさき こやた)が、1945年に亡くなった日です。
1879年、三菱合資会社の創始者岩崎弥太郎の弟で2代目岩崎弥之助と、後藤象二郎の長女早苗を母に、その長男として東京に生まれた岩崎小弥太は、旧一高を経て東京帝国大学法科大に入学するものの中退して渡英、1902年にケンブリッジ大学へ入学し、1905年同大学を卒業して翌年帰国すると、三菱合資会社の副社長となりました。社会的活動に目をむけた小弥太は、1907年には成蹊学園を創立し、1910年には東京フィルハーモニック・ソサエティを設立して洋楽の振興につとめ、翌年には山田耕筰を後援して交響楽音楽会を開催しました。
1916年、3代目岩崎久弥(弥太郎の長男)のあとをつぎ、三菱合資会社4代目となった小弥太は、社長に就任するや、三菱の事業組織の改革に陣頭指揮をとって臨みました。これまでの三菱の諸事業は、三菱合資会社の事業部だったものを、1917年から21年までに順次、三菱造船、三菱製鉄、三菱倉庫、三菱商事、三菱鉱業、三菱海上火災保険、三菱銀行、三菱内燃機製造、三菱電機各社を、それぞれ独立した株式会社として設立しました。そして、三菱合資会社はすべての会社の株式を所有する持株会社となり、傘下各社を支配する日本最大の重工業企業集団に成長させました。これは、三菱財閥の完成ともいえる大改革でした。
小弥太以前の三菱の事業は、岩崎家の独占的ともいえる出資によってきましたが、「資本の一部を社会公衆に頒かち、出来うれば従業員をも参加せしめて、開放的に事業を経営したい」と、株式公開が時代の流れであることを主張しています。必ずしも、その通りにはならなかったものの、考え方の基本はそこにありました。
太平洋戦争開始前の小弥太は、戦争反対の立場を貫いていましたが、開戦後は国家の政策に協力するのが国民の義務であるとして、軍需生産にまい進しました。1945年8月の日本の敗戦時には病の床にあり、GHQの圧力による財閥解体には、三井、住友、安田がこれに同調したのに対し、小弥太は「国策の命ずるところに従って全力を尽くしたのであり、顧みて恥ずべきものはなにもない」と、最後まで抵抗しましたが適わず、この日亡くなってしまいました。
「12月2日にあった主なできごと」
1922年 ベル死去…聾唖(ろうあ)者の発音矯正などの仕事を通じて音声研究を深めているうちに、磁石式の電話機を発明したベルが亡くなりました。
1970年 歩行者天国…東京銀座・新宿・渋谷などで、歩行者天国が実施され、ふだんの日曜日の2.4倍もの人びとがくりだしました。この日の一酸化炭素濃度が、ふだんの日の5分の1になったことから、車の排気ガス汚染を食い止め、汚染のない環境をとりもどそうと、全国各地に広まるきっかけになりました。
投稿日:2015年12月02日(水) 05:17