「鉄砲伝来」 と種子島時堯
今日10月2日は、漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入し、分解して鉄砲製造に成功した14代島主の種子島時堯(たねがしま ときたか)が、1579年に亡くなった日です。
九州西南端にある種子島の種子島家は、鎌倉時代初期に始まり、第7代島主の頼時の頃から薩摩の島津氏に治められるようになっていました。1528年、種子島家第13代島主種子島恵時(しげとき)の子として生れた種子島時堯は、1543年、大隅半島の豪族禰寝(ねじめ)氏に攻めこまれて父が屋久島に逃れたことがきっかけになって、15歳で家督を継ぎました。
それからわずか5か月後の8月25日、今度はポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着しました。これは、ヨーロッパ人初の来日でした。当時種子島は、中国や沖縄へ渡航する交易船の停泊地となっていたため、種子島の人たちは、沖縄人から、ヨーロッパ人についての知識は持っていました。
好奇心旺盛な若き島主の時堯は、この時、鉄砲の威力を見て2挺を購入すると、その使用法を学んで百発百中の腕前を見せるようになりました。そして、家臣に弾薬の作り方を学ばせ、鍛冶に命じて鉄砲を模造させようとしましたが、銃筒の底をふさぐ方法が会得できませんでした。翌年来航した商船に鉄匠がいたため、鍛冶職人八板金兵衛をこの鉄匠につかせて鉄炮製造に成功すると、1年後には数十挺を所持するまでになりました。
このうわさを聞いた堺の商人の来島にはじまり、紀伊国根来(ねごろ)、近江国国友村などにも伝わり、「種子島」が鉄砲をさすほど全国へ拡がりました。やがて戦国時代の戦術を変え、織田信長、豊臣秀吉の全国統一の力となったことはよく知られています。
その後時堯は、島津忠良の娘をめとり、1555年には島津貴久に従い大隅国攻めに活躍するなど、1558年には左近衛将監に将官しています。そのいっぽう、島津氏と争っていた禰寝氏から姫をひそかに迎えて側室にし、この禰寝氏の娘との間に生まれたのが長男の時次でした。1560年に家督を時次に譲るものの、1562年に早世したため家督にもどっています。
「10月2日にあった主なできごと」
755年 吉備真備死去…奈良時代に輩出した最大の知識人・政治家といわれる吉備真備が亡くなりました。
1943年 学徒出陣公布…太平洋戦争での兵力不足を補うため、また戦局悪化により下級将校の不足も顕著になったため、26歳までは徴兵猶予されていた20歳以上の学生を、在学途中で徴兵し出征させると公布しました。そして、10月と11月に徴兵検査を実施して合格者を12月に入隊させることになりました。
1961年 柏鵬時代の始まり…大相撲の柏戸・大鵬両大関が、この日そろって横綱に昇進。前年までの栃錦と若乃花による「栃若時代」にかわって、大型若手横綱の登場に大相撲は大きな盛り上がりをみせました。
投稿日:2015年10月02日(金) 05:22