「名男優」 宇野重吉
今日1月9日は、滝沢修らと「劇団民芸」を創設させてわが国の代表的劇団に育て上げ、そのひょうひょうとした演技により、テレビ・映画・演劇で人気を博した宇野重吉(うの じゅうきち)が、1988年に亡くなった日です。
1914年、今の福井市に裕福な農家の子に生まれた宇野重吉(本名・寺尾信夫)は、旧制福井中学を経て上京し、新聞配達のアルバイトをしながら日本大学芸術科に入学するものの中退、1932年にプロレタリア演劇研究所に入り、1938年の久保栄演出『火山灰地』に出演して認められました。しかし、治安維持法違反で検挙されたり、応召されてボルネオで敗戦をむかえるなど、苦しい時期を過ごしました。
1950年、滝沢修らと民衆のための演劇をめざす「劇団民芸」を創設させると、宇野は、俳優・演出家・経営者と一人三役をこなす多忙な日々を送りました。「芝居でメシの食える劇団」をモットーに、その稽古は厳しく、妥協を許しませんでした。ロシアのチェーホフらヨーロッパ各国の劇、中国や近代日本の題材なども扱い、やがて、確かな演技力と斬新な演出により、「民芸」を、新劇界のリーダー的存在に育て上げました。
1953年には、新藤兼人監督『愛妻物語』に主演をして映画デビューをはたすと、翌1954年には、映画製作を開始させたばかりの日活が五社協定の締め出しによって俳優不足に苦しんでいることを知ると、宇野は「民芸」を日活と提携させ、多くの劇団俳優を日活映画に出演させたばかりか、自身も多くの日活映画に出演。石原裕次郎との友情は、この時代から石原の死に至るまで続いたといわれています。
1964年には、大河ドラマ『赤穂浪士』の蜘蛛の陣十郎役で、ひょうひょうとした演技が注目されて茶の間の人気者になってからは、舞台・映画にとどまらず、テレビ界でも大活躍をつづけました。
ところが1978年、胃がんのため、胃の半分以上を切除。それにもめげず、半年後に復帰を果たしましたが、「生で芝居を見たことのない日本のすみずみの人にも感動を与えたい」との思いが強くなり、「宇野重吉一座」という旅回りの一座を旗揚げすると、トラックで全国を回り始めたのでした。一座は行く先々で歓迎を受け、毎日点滴をしながらも100回以上もの地方公演をこなし、これまでにない充実感を感じたといいいます。しかし1987年12月、「石にしがみついてもこの道を歩いていきます」という台詞が宇野の舞台上での最後の言葉となってしまいました。
文筆家としても優れ、エッセー集『光と幕』、『新劇・愉し哀し』(毎日出版文化賞)や、チェーホフ研究書『「桜の園」について』を残しています。演出での受賞も数知れず、芸術祭賞、芸術選奨、テアトロン賞、紀国屋演劇賞などのほかに、1981年には紫綬褒章を受けました。なお、俳優の寺尾聰は宇野の長男で、1968年の『黒部の太陽』や、1976年の『男はつらいよ』第17作「寅次郎夕焼け小焼け」では、親子共演を果たしています。
「1月9日にあった主なできごと」
802年 胆沢城…794年に史上初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、現在の盛岡市近辺に胆沢(いざわ)城を築城。同城は、およそ150年にもわたって東北の蝦夷地政府ともいうべき[鎮守府]として機能しました。
1891年 内村鑑三不敬事件…3年間のアメリカ留学でキリスト教徒となった内村鑑三は、前年から第一高等中学校の講師を務め、この日講堂で挙行された教育勅語奉読式において、天皇親筆の署名に最敬礼をおこないませんでした。それが同僚・生徒などによって非難され、社会問題化しました。
1905年 血の日曜日…ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクの冬宮前広場で行われた労働者によるデモに対し、政府の兵士が発砲、2000人もの死傷者を出しました。この日曜日におきた事件は、ロシア第1次革命の発端となりました。
投稿日:2015年01月09日(金) 05:32