「民主主義思想の普及」 と大山郁夫
今日11月30日は、大正デモクラシーの最先頭に立って言論活動を行い、戦後は国際的平和運動に身をささげた政治学者・社会運動家の大山郁夫(おおやま いくお)が、1955年に亡くなった日です。
1880年、今の兵庫県相生市の福本家に生まれた郁夫は、17歳の時に養子縁組により大山姓となりました。東京専門学校に入学すると、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業しました。1906年に同大学の講師となり、1910年よりアメリカとドイツに留学して1914年に帰国すると、早大の政治学教授に就任し、国家主義的デモクラシー論を携えて論壇にも登場しました。
ところが、1917年の早稲田騒動により同僚教授の解雇に反対して大学を辞すと、大阪朝日新聞社に入社して、鳥居素川編集局長のもとに長谷川如是閑とともに、大正デモクラシーの最先頭に立って言論活動を行いました。翌年、当時の寺内正毅内閣のシベリア出兵や米騒動への対処に激しい攻撃を加えたところ、弾圧の機会をねらっていた内閣は、報道記事の中にあった〈白虹日を貫けり〉という一句を問題視し、新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たると同紙を発行禁止にもち込もうとしたことで、大山は、如是閑ら論説委員たちと辞職しました(白虹筆禍事件)。1919年に大山は、如是閑らと雑誌「我等」を創刊し、民主主義思想を広めることにつとめました。
1920年に早大に復職すると、このころから社会主義に接近し、知識人の無産運動への参加協力の必要を唱えるようになり、1923年に軍事研究団反対運動への参加を契機に、早大内で学生たちと大学の自由と自治擁護運動の中心となってたたかいました。
1926年には、結成されたばかりの「労働農民党」の中央執行委員長に就任し、「輝ける委員長」として、多くの労働者や農民から慕われ、無産政党運動の先頭にたちました。1929年、暗殺された山本宣治追悼演説で「われらの行くところは戦場であり墓場である」の文句は有名です。
1929年11月に、新労農党を結成して翌年衆議院議員に当選しましたが、労農党は内部からの解消運動によって他党との合同を余儀なくされ、1931年に満州事変がおこると軍部の力が強まり、大山は政治的に孤立し、弾圧をのがれるために1932年に渡米、ノースウェスタン大学政治学嘱託として亡命生活を送りました。
1947年、16年ぶりに帰国した大山は、「国の内外の反動勢力と闘わなくてはならない」と宣言、早大に復帰して国際的平和運動に身をささげました。1950年には参議院議員に選ばれ、1951年にスターリン国際平和賞を受賞し、議員在職中に亡くなりました。
「11月30日にあった主なできごと」
1667年 スウィフト誕生… 『ガリバー旅行記』 などを著したイギリスの風刺作家スウィフトが生まれました。
1835年 マーク・トウェーン誕生…少年文学『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』や『王子と乞食』など、ユーモアのなかにするどい社会風刺をもりこんだ数々の作品を著したアメリカの作家マーク・トウェーンが生まれました。
1874年 チャーチル誕生…第2次世界大戦の際、イギリス首相として連合国を勝利に導くのに大きな力を発揮したチャーチルが生まれました。
投稿日:2015年11月30日(月) 05:50