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最新記事【2015年07月07日】

今日7月7日は、「阪妻」の呼び名で親しまれ、チャンバラ時代劇の第一人者となり、晩年には『無法松の一生』『破れ太鼓』など現代劇の佳作を演じた俳優の阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)が、1953年に亡くなった日です。

1901年、今の東京神田にあった木綿問屋の次男に生まれた阪東妻三郎(本名・田村伝吉)は、小学校を卒業するころから家業が傾きだし、兄、姉、母を相次いで亡くした上、父親が事業に失敗して破産してしまいました。1916年に十一代目片岡仁左衛門の内弟子となり、歌舞伎役者になりましたがうまくいきません。そんななか、「活動写真」(サイレント映画)の人気が高まり、エキストラに出演したりすることもありました。

1923年、牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成すると映画俳優に転向、1924年の正月映画『火の車お萬』で環歌子との共演が当たり役となり、つづく『怪傑鷹』の悪役が受けて出世の糸口となりました。

やがて、ニヒリズムと乱闘を魅力とした寿々喜多(すずきた)呂九平脚本、阪東妻三郎主演による一連の時代劇『鮮血の手型』『恐怖の夜叉』『討たるる者』は、ダイナミックな剣げきとリアルな演出で、映画界に革命的な衝撃を与えました。従来の「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助に代表される、一人斬るごとに見得をきる歌舞伎的「旧劇」を脱した「新時代劇」を創りあげ、続く『江戸怪賊伝・影法師』『墓石が鼾(いびき)する頃』『雄呂血』もヒットさせ、特にインテリや学生の間に大きな反響を呼び起こし、時代劇俳優の第一人者としての地位を決定的なものにしました。

1926年には、スター・プロの走りとなった阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を設立し、時代劇の一時代を築くものの低迷、ふたたび阪妻の風格と貫禄をみせるのは、晩年になってからでした。1936年に阪妻プロを解散し、1942年に大映に入社した翌年、稲垣浩監督・伊丹万作脚本・阪東妻三郎主演の『無法松の一生』は喧嘩っ早い人力車夫・松五郎の生涯を描き、日本映画界屈指の名作の一つに数えられています。また、敗戦後の1948年の伊藤大輔監督による『王将』は、これも無学文盲で将棋一途の坂田三吉の生きざまを演じ、さらに翌年木下惠介監督による『破れ太鼓』では、うわべはいばり散らしても根は無邪気なお人よしの雷親父を見事に演じきりました。この3作品は、一貫した人間像を描いた現代劇の佳作でした。

なお、阪妻の長男田村高広(2006年死去)、3男田村正和、4男田村亮は、「田村3兄弟」として俳優として活躍したことはよく知られています。


「7月7日の行事」

今日7月7日は、「七夕」です。こんなロマンチックな中国の伝説が、もとになっています。

天の神様の娘の織女星(こと座のベガ)は、美しい織物を織る名手でした。とても仕事熱心なため、年頃になってもボーイフレンド一人作りません。かわいそうになった神様は、天の川のむこうに住む働き者の牽牛星(わし座のアルタイル)という若者と結婚させました。ところが、結婚すると二人は、あんまり毎日が楽しくて織女星は織物を織らなくなり、牽牛星も牛を追わなくなったのです。怒った神様は、天の川のこちらの岸に織女星を連れもどし、1年に一度の「七夕の夜」だけ向こう岸に行ってよいことにしました。7月7日の晩、空が晴れると、白鳥たちが天の川にたくさん舞い降りて、翼で橋を架けてくれます。織り姫はその白鳥たちの橋を渡って牽牛に会いに行くのです。

いっぽう日本には、「棚機つ女(たなばたつめ)」という民間信仰がありました。少女はこの日に、身を清めて衣を織り、機織り機の棚の上に置いて、神様をお迎えし、穢れを取り去ってもらうというもので、この伝統と中国の伝説がいっしょになって、7世紀の頃から宮中の行事になり、江戸時代の末期になって、一般の人たちもこの行事をはじめるようになったといわれています。


「7月7日にあった主なできごと」

1615年 武家諸法度発布…5月に大坂夏の陣で、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は、2代将軍の徳川秀忠の名で全国諸大名に「武家諸法度」13か条を発布しました。自分の領地と江戸とを1年ごとに毎年4月に参勤することを指示した参勤交代制、築城の厳禁、幕府による大名やその側近の結婚許可制などの統制令でした。

1622年 支倉常長死去…江戸時代初期の仙台藩主伊達政宗の家臣で、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパへ渡航した支倉常長が亡くなりました。

1937年 盧溝橋事件…北京に近い盧溝橋で、中国・国民党政府軍と日本軍との間に発砲事件がおこりました。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となったこの事件をきっかけに、日本軍と中国は戦争状態に突入し、戦線を拡大していきました。
投稿日:2015年07月07日(火) 05:24

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)