「計算機」 の樫尾忠雄
今日3月4日は、国内電子機器業界を代表する「カシオ計算機」の基礎を築いた樫尾忠雄が、1993年に亡くなった日です。
1917年、高知県の貧しい農家の長男に生まれた樫尾忠雄は、5歳のころ、東京で働いていた叔父に誘われて一家で上京しました。忠雄は高等小学校を卒業したのち、家計を助けるために見習いの旋盤工として働き始めます。その腕の良さはなかなかなもので、本物と間違えるほどの銃を作ってしまうほどで、工場主の勧めもあり、働くかたわら早稲田工手学校に通学しました。そして、教わった技術と知識をもとに、鍋、釜、自転車の発電ランプなどを、たちまちこしらえてしまうほどになります。そんな卓越した技能や創造性が評判となり、冶金金属製造会社、軍関連製品製造会社を経て、航空機の部品製造会社として独立しました。
敗戦後の1946年、東京三鷹市に「樫尾製作所」を興し、3人の弟とともに、精密機械の加工業を始めると、これまで日本では作られていなかった計算機の開発に取り組みはじめました。試行錯誤のすえ1955年、電動式と機械式をうまく組み合わせた計算機の試作品を完成させると、その後改良を重ね、1957年6月、小型電子計算機で14桁まで計算できる「カシオ14-A型」を発売しました。これは、電子的な計算処理をする世界初の量産型計算機で、これを機に社名を「株式会社カシオ計算機」として、全国販売を開始しました。
こうして、業界でも有名な「樫尾4兄弟」は、主に忠雄が財務、次男俊雄が開発、3男和雄が営業、4男幸雄が生産を担当して、コンビよく、カシオを順調に運営していきます。「カシオ14-A型」の後も、1972年に電子式計算機「カシオミニ」を12800円で発売させると爆発的な人気となり、国民の間に計算機が広まるきっかけとなりました。さらに、電卓、デジタルウオッチ、電子楽器、ポケットテレビ、液晶モニター付きデジタルカメラ、液晶テレビなど、画期的な製品をすばやく、低価格で発売して消費者のニーズに応え、急成長をとげていくのは周知のとおりです。
「創造することは社会に貢献すること」という「創造貢献」の信念を生涯貫いた忠雄は、1988年に社長から相設役へと退き、将来を弟たちに託したのでした。
「3月4日にあった主なできごと」
1053年 平等院鳳凰堂…藤原頼通は、父藤原道長からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」とし、極楽浄土といわれる鳳凰堂(阿弥陀堂)を完成させました。
1697年 賀茂真淵誕生…江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が生まれました。
1788年 寛政の改革…江戸幕府11代将軍家斉は、白河藩主として評判の高かった松平定信を老中首座・将軍補佐とし、定信は「寛政の改革」を実施して幕政の改革をはじめました。8代将軍吉宗の「享保の改革」をめざしたものでしたが、あまりに堅苦しいものだったため、成功にはいたりませんでした。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と田沼意次時代を懐かしむ狂歌に詠まれるほどでした。
1878年 有島武郎誕生…絵のぐをぬすんだ生徒と、その生徒をやさしくいましめる先生との心のふれあいをえがいた児童文学『一房の葡萄』や『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』など社会性の高い作品を数多く残した白樺派の作家有島武郎が生まれました。
投稿日:2015年03月04日(水) 05:14