« 2015年02月04日 | 児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top2015年02月06日 »

最新記事【2015年02月05日】

今日2月5日は、官僚政治家として大蔵大臣・内務大臣を歴任し、日本の難局に2度の内閣総理大臣を務めるものの総辞職に追い込まれた若槻礼次カ(わかつき れいじろう)が、1866年に生まれた日です。

松江藩(島根県)の下級藩士奥村家の次男として生まれた礼次カは、3歳のときに母を失い、小学校を出てから漢学塾へ通うものの貧しさのために退学、生計をたてるため3年間小学校の代用教員となりました。東京へ出て勉強したいことを叔父の若槻敬(のちに敬の養父)に相談したところ、賛成と資金援助を受け、1884年に上京。司法省法律学校を経て、東京帝国大学仏法科を主席で卒業して大蔵省に入り、おもに税務行政を担当しました。1906年、第1次西園寺公望内閣のとき、阪谷大蔵大臣のもとで大蔵次官として補佐し、翌年は政府財政委員としてロンドン、パリに駐在しました。

1911年に貴族院勅撰議員に推挙され、1912年には、第3次桂太郎の大蔵大臣として入閣をはたすと、桂が創設した立憲同志会に所属して、官僚出身の政党政治家としての歩みを開始します。1914年の第2次大隈重信内閣の大蔵大臣、1924年には、護憲三派(憲政擁護運動を推進する政友会・憲政会・革新倶楽部の3派連合)の加藤高明内閣で内務大臣に就任しました。ここで、懸案とされてきた「普通選挙」と「治安維持法」を成立させる責任者となりました。

1926年1月、加藤の急死に伴い憲政会総裁を引き継いだ若槻が総理となったものの、金融恐慌(台湾銀行・十五銀行などの倒産や取りつけ騒ぎ)に遭遇し、英米と協調外交をすすめましたが枢密院や軍部に否認され、翌年4月に総辞職しました。

1931年4月に若槻は、2度目の内閣を組織しますが、これも浜口雄幸が右翼少年に撃たれた傷がもとで死去したのを受けて、浜口内閣の閣僚を引きついだものでした。この年の9月、「満州事変」がおこり、若槻はこれをひきおこした軍部の行動に対処できず、また内閣内部の対立もまとめきれず、12月に総辞職しました。

以後若槻は、政治の第1線を退き、元老の西園寺公望に信頼されて、後継首相の選定を預かる「重臣」のひとりとなりました。1941年10月の第3次近衛文麿の後継を決める重臣会議で、英米との開戦に否定的な若槻は宇垣一成を推し、木戸幸一らは東条英機を推しましたが、強く反対はしませんでした。

のちに尾崎行雄は、「若槻君は、長年の官吏づとめで、上から叱られると小僧のようにすぐ閉口する癖がある。議会では強腰でも、軍部や枢密院にぐずぐずいわれると、たちまち内閣を放り出して逃げてしまう」と酷評しました。しかし若槻は、日本を終戦に導く努力をした一人であり、極東裁判(東京裁判)の証人となり、キーナン検事から「日本の真の平和愛好者は、あなたがた4人」として、宇垣一成、岡田啓介、米内光政とともに、パーティに招待されたことを誇りとしながら、1949年に亡くなりました。


「2月5日にあった主なできごと」

664年 玄奘死去…中国・唐の時代の高僧で、中国の仏教を発展させた玄奘(げんじょう)が亡くなりました。玄奘三蔵の著した旅行記「大唐西域記」は、のちの民の時代に、三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄をしたがえて、さまざまな苦難を乗り越えて天竺へ経を取りに行く物語『西遊記』として描かれ、世界的に有名になりました。

1597年 26聖人の殉死…豊臣秀吉の命令により、カトリック信徒二十六名が長崎で処刑されました。

1869年 小学校設置の奨励…明治政府は、小学校設置令を公布して小学校を設置するように全国に働きかけました。翌年に学制が発布され、1873年1月設置の東京師範学校附属小学校を皮切りに、1875年には約2万4千校の小学校が全国各地に設置されました。
投稿日:2015年02月05日(木) 05:45

2015年02月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)