「点字開発」 のブライユ
今日1月6日は、アルファベットや数字、楽譜など「6点点字」の開発者として知られるフランスのブライユが、1852年に亡くなった日です。
1809年、パリの西南にあるクーブレという小村に、馬具や革靴などを制作する職人の子として生まれたルイ・ブライユは、3歳の時に工房で遊んでいるうち、誤って父の使っていたキリを眼球に刺して左目を失明してしまいました。その後、感染症にかかって右目も見えなくなり、5歳で全盲となってしまいました。
当時は、盲人が生活をするのはとても困難な時代でしたが、ブライユは指先の感覚が特に優れ、触っただけで物の区別ができたため、母や姉が市場で売る野菜の仕分けを手伝えるほどでした。そのため、両親の努力やまわりの人たちの助力もあって、パリ盲学校に入学することができました。やがて在学中の1824年、ブライユはフランス軍人シャルル・バルビエの開発した12点文字と出会いました。これは、夜間に命令を伝達する暗号方法として、12点の点字を考えつき、パリ盲学校を訪れたものの、文字が複雑すぎてほとんど受け入れらなかったものでした。
しかしブライユは、12点点字に興味を示し、短期間で習得すると、この欠点を改善し、左上から下に1〜3番、右上から下に4〜6番の「6点点字」を考えつきました。そして、アルファベット26文字のうち、Aは1番、Bは1番と2番、Cは1番と4番というように組合わせると、すべてのアルファベット文字を示すことができ、数字を表に浮き上がらせた文字を、指でさわるようにすればよいことに気がつきました。さらにブライユは、アクセントや句読点、数字や音符の書き方などにも工夫をこらし、1825年に「6点点字」を完成させたのです。
盲学校を卒業してからは、同校の教官になったブライユは、43歳で亡くなるまで教鞭をとり、そのかたわら教会のパイプオルガンを演奏するなどして活躍しました。しかし、ブライユ点字がフランスで共通なものとして認められるのは没後2年経ってからで、世界に広まったのは、さらに100年も経過してからでした。
なお、ブライユの点字を日本語に翻案したのが、石川倉次です。石川は、師範学校を出て千葉県の小学校の教師をした後、「訓盲唖院」(後の東京盲聾学校)に勤め、1890年ルイ・ブライユが考案した6点式点字で日本語を表記することに成功。これが正式に採用されたのが、1890年11月1日のことでした。以来この日が「点字の日」と定められています。石川は「点字器」や「点字ライター」も開発し、「日本点字の父」といわれています。
「1月6日にあった主なできごと」
1215年 北条時政死去…鎌倉時代の初期、源頼朝がうちたてた鎌倉幕府の実権を握り、北条氏の執権政治の基礎を築いた武将・北条時政が亡くなりました。
1412年 ジャンヌ・ダルク誕生…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが生まれました。
1706年 フランクリン誕生…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが生まれました。
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投稿日:2015年01月06日(火) 05:07