「志士のバイブル」 と浅見絅斎
今日12月1日は、江戸時代中期の儒学者・思想家で『靖献遺言(せいけんいごん)』を著し、幕末期の尊王論者に大きな影響を与えた浅見絅斎(あさみ けいさい)が、1712年に亡くなった日です。
1652年、近江国(滋賀県)高島に医者の子として生まれた浅見絅斎(通称・重次郎)は、軍学や儒学を学び、父の後をついで高名な医者となりましたが、26歳のころ晩年の山崎闇斎に師事して儒学を深めるうち、学者となる道を選びました。やがて佐藤直方、三宅尚斎と共に「崎門三傑」の一人といわれるようになりました。
ところが、後年になって闇斎の垂加神道の説に従わなかったために、兄弟子直方と共に破門されました。しかし闇斎の死後は、神道にも興味を示すようになって、香を焚いて罪を謝し、闇斎の所説を継承するに至ります。そして、4年の歳月をかけて1687年に主著『靖献遺言』(全8巻)を出版しました。同書は、中国歴代の忠臣、楚の国の屈原、漢の諸葛孔明、晋の陶潜、唐の顔真卿、宋の文天祥と謝枋得、元の劉因、明の方孝孺まで、不遇ななかに道義を貫いた8名の評伝となっており、小伝として赤穂義士を賛美した「四十六士論」を加えたもので、近世の勤王論に多くの感化を与えました。
59歳で亡くなるまで、京を一歩も離れることなく、若林強斎、山本復斎ら多くの門人に教授し、その講義の内容は弟子たちの記録した「師説」に残されています。没後は、山崎闇斎の朱子学を最もよく受け継いだ人物として、とくに『靖献遺言』は志士たちのバイブルとされ、明治維新の原動力の一つとなりました。
「12月1日にあった主なできごと」
1789年 ギロチンの採用…フランス革命のころ、死刑執行のために使われた首切り器械のギロチンは、医師のギヨタンが提案してこの日の国民議会で採用されました。ルイ16世やその妃 マリー・アントアネットをはじめ何万人もの人が首を切られましたが、ギヨタンもまたギロチンで処刑されました。
1997年 京都議定書…「地球温暖化防止会議」が、この日から10日間京都で行なわれ、地球温暖化の原因となる温室効果ガスをだす量を、先進国が国別に目標値を定めてへらしていくことを決めました。この取り決めは「京都議定書」と呼ばれています。
投稿日:2014年12月01日(月) 05:30