「芭蕉の精神」 を伝えた去来
今日9月10日は、「俳聖」といわれる松尾芭蕉の一門(蕉門)一番弟子で、関西俳壇の中心として活躍した俳人の向井去来(むかい きょらい)が、 1704年に亡くなった日です。
1651年、肥前国(今の長崎県)に儒学者で医師の向井元升(げんしょう)の次男に生まれた向井去来(本名・兼時)は、少年時代に父に伴って京都聖護院に住み、文武両道に通じた人物だったといわれています。25歳のころ、福岡藩に招かれるものの、なぜか固辞して、以後武芸を捨てて京都で浪人生活を送りました。
父が亡くなったのを機に武士の身分をすて、父の別荘のあった京都嵯峨野に落柿舎(らくししゃ)という庵を建てて俳諧に打ちこみ、文通により松尾芭蕉の教えを受けました。1686年に江戸に下って、初めて芭蕉と会う機会に恵まれると、1689年に芭蕉を落柿舎に招くと、ここを気に入った芭蕉は1691年の夏に、提供された落柿舎で『嵯峨日記』を執筆しました。
その間去来は、「俳諧の古今集」といわれる『猿蓑』の編集を、野沢凡兆と共に行ったことで、芭蕉から俳諧の真髄を身近で学ぶことができ、没年まで書き続けた著『去来抄』は、蕉風俳論の最も重要な文献とされています。篤実で温厚な性格は芭蕉の絶大な信頼を得て、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名され、京都ばかりか西日本の蕉門を束ねた実績は、卓越した人をひきつける技量を合わせ持った人物といわれています。次のような作を残しています。
秋風や白木の弓に弦はらん
応々といへどたたくや雪の門
湖の水まさりけり五月雨
螢火や吹とばされて鳰の闇
岩鼻やここにもひとり月の客
なお、嵐山に近い落柿舎は、南禅寺北門から、雄大な孟宗竹林をへて二尊院に至る、私の大好きな「嵯峨野観光」のメインストリートに位置しています。小さな門を入った目の前の壁には、主人の在宅を知らせるという蓑と笠がかけられ、芭蕉、去来、其角ら俳人たちが交わった雰囲気にふれることができ、門前に広い畑が残るのどかな風景とともに、こころがなごみます。
「9月10日にあった主なできごと」
1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。4回目のこの日の戦いがもっとも激しいもので、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。
1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。
1960年 カラーテレビ本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。
投稿日:2014年09月10日(水) 05:39