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最新記事【2014年09月02日】

今日9月2日は、第16代越前福井藩主で、一橋慶喜を将軍に推したり、公武合体策の推進、政事総裁職に当るなど、幕末に本家徳川家の中心となって活躍した松平春嶽(まつだいら しゅんがく)が、1828年に生まれた日です。

江戸城内の御三卿のひとつ田安家に生まれた慶永(春嶽=号)は、1838年に親藩である越前福井藩主・松平家の養子となり、わずか11歳で32万石の福井藩主となりました。全藩士の俸禄3年間半減や藩主の出費5年間削減など財政基盤を盤石にし、銃砲や火薬を製造して西洋式軍政の採用をしたり、中根雪江、由利公正、橋本左内らの助言をえながら、翻訳機関洋学所を設置させ種痘をすすめるなど、藩政改革を積極的に行いました。

1853年にペリーが来航して通商を求めた際には、水戸藩の徳川斉昭、薩摩藩の島津斉彬と共に海防強化や攘夷を主張しましたが、親戚筋にある老中の阿部正弘らと交流するうち開国派に転じました。

第13代将軍家定の継嗣問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の徳川慶喜を後押ししました。しかし、紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す彦根藩主の井伊直弼が大老となって14代将軍家茂となり、意をはたせませんでした。また、幕府が朝廷の勅許なしに日米修好通商条約に調印すると、春嶽は徳川斉昭らとともに登城して抗議すると、1858年7月、不時登城の罪を問われて強制的に隠居させられ、謹慎の処分を受けてしまいました。

1860年3月「桜田門外の変」で井伊直弼の暗殺後に謹慎を解かれ、1862年に春嶽は、新設されたばかりの政事総裁職に就任し、将軍後見職の慶喜とともに会津藩主・松平容保を京都守護職に就任させ、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁させるなど、公武合体策を推進しました。

さらに、熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重視し、越前、薩摩、土佐など公武合体派諸藩による連合政権構想をもって1863年に上洛すると、京都では長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとするのに愛想をつかして、政事総裁職を辞任して帰国しました。その後も、1864年3月には、松平容保に代わって京都守護職に就任したり、1867年には、島津久光、前土佐藩主の山内容堂、前伊予宇和島藩主の伊達宗城の四者で四侯会議を開くものの、15代将軍となった慶喜の大政奉還が決まり、春嶽もまたこれに賛同しました。

戊辰戦争時にも、慶喜の助命など本家徳川家が存続できるよう働きかけて目的を達したほか、明治新政府でも民部卿、大蔵卿など要職に就きましたが、1870年に退職、以後『徳川令典録』などの編集にたずさわった後、1890年に亡くなりました。


「9月2日にあった主なできごと」

BC31年 アクチュームの海戦…シーザーの暗殺後、ローマではオクタビアヌスとアントニウスと権力争いが始まっていました。この日アクチュームの海戦がおこり、両軍1000隻の軍船が槍、火矢、投石で交戦し、オクタビアヌスが勝利しました。アントニウスはクレオパトラと共にエジプトにもどりましたが、翌年アントニウスは剣で、クレオパトラは毒蛇に胸を咬ませて自殺しました。

1937年 クーベルタン死去…古代オリンピア遺跡の発掘に刺激されてオリンピックの復活を提唱、1896年ギリシャのアテネで近代オリンピックの開催を実現した「近代オリンピックの父」クーベルタン男爵が亡くなりました。

1945年 日本の降伏…東京湾上に浮かんだアメリカの軍艦ミズリー号の艦上で、連合国側に対する日本の降伏文書の調印式が行なわれました。日本全権団は重光外相他11名、連合国軍は9か国それぞれの代表とマッカーサー最高司令官が署名し、ここに満州事変から15年にわたる日本の戦争に終止符がうたれました。
投稿日:2014年09月02日(火) 05:30

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)